とうの昔に嗅ぎ慣れたはずの、せっけんのにおい。風呂上がりは自分から漂ってさえいるはずの、柔らかな香り。
だというのに、どうしてこんなに脈拍を逸らせるのだろう。直江がこの香りを纏っているだけで、どうして。
他人の体温だって、これほどまでに私を緊張させて、一方で落ち着かせるような、不可思議なものではなかったはずなのに。
抱き合いながら思考して、数日ぶりのあまやかさとぬくもりに己を馴染ませて、そっと息を吐く。直江を抱き締める腕に力を入れると、同じように力を籠め返されることに、彼をどれだけ動揺させていたかを思う。いつもなら、……私が弱っていないときなら、直江は自分の好きなやり方で、私を抱き締めていたというのに。
ごめんね、と思いながら、すぐそばにあるもの、体温と香りへ意識を傾ける。できるだけ早く慣れるように。苦しむのは得意だけれど、原因を解消する方が先決だ。
そうして、静かに静かに、少しずつ距離を縮めて、
「……なおえ」
「! ああ、どうした?」
お互い、少しぎこちない声だった。気付くと同時、久しぶりに聞いたそれに心臓が跳ね上がる。好き。好きだ。直江のことが好きだ。声を聞いただけで、脳みそをかき混ぜられたような心地になるくらい、好きだ。
でも、一時の間だけ、耐えなければ。心配してくれて、不安になってもいる直江に、きちんと説明しなければ。
「……あのね」
「ああ」
「……ひ、ひさしぶりに会ったら、その、どきっと、しちゃって。
ごめんね」
どきっとしちゃって。なんてマイルドな表現だろう。けれど、正直に言いすぎるのも気恥ずかしかった。
それでも、やっと謝れたし、やっと誤解を解くことができたのは事実だ。ふっと息を吐く。
ただ、怒らせてしまっていないかだけが気がかりだ。いくら直江でも、こんな理由でハラハラさせられては、ひとつやふたつ、不愉快はあるだろう。一言も発しないあたりも、やはり怒らせているのではないかと思わされた。
様子を窺おうか、と身動いだそのとき。
耳元で、大きな吐息。
強く抱き寄せられる。
「……お前はとんでもない奴だな。
まさかこうも、何を言えば良いかわからなくなるとは」
「……その」
「謝るな。怒ってはいない。
怒ってはいないが、……名状し難いな。
お前の愛らしさと愛を再認識し、噛み締めてはいるのだが、……しばし待て」
「え? は、はい」
反射的に頷いてから、心の中で口元を引きつらせる。
前言撤回だ。いくら直江でもと思ったが、さすが直江であったらしい。
怒りを買っていないという予想外の事態に、こちらもどうするべきか迷ってしまう。直江の声色は力みすぎて震えていたのだから尚更だ。その反応が怒りでないのなら、一体なんだというのだ。今さっきの言葉をそのまま受け取るにしても、違和感は拭えない。
私を可愛いだの、愛を感じるだの言うときの直江は、もっとうるさい。いや、ショックを受けさせたばかり、杞憂だとわかったばかりではあるから、テンションを早々に切り替えられないという可能性も……。
直江が何も言わないので、私も頭で考えるばかりになる。先ほどまでの、私の真意がわからなかった間の直江もこうだったのだろうか。申し訳無さを塗り重ねる。
「名前」
「お、うん、なに?」
そんな中で私を呼んだ直江には、くたびれた色が見えた。
「お前は私を愛しているということ、数日会えなかっただけで感極まり、私と面と向かうのですら愛が溢れすぎて動揺しすぎてしまうほどであるということ。
そういうわけだったのだな?」
「……あ、はい……。そー……ですね……」
「……まったく、驚かせる」
「すんません……」
悪態というより、ぼやきとする方が正しそうだった。私も私で、わざと婉曲的に表現したことをきっちりはっきり突き付けられたいたたまれなさはあるけれど、非があるのはこちらなので文句は言えない。
自然と身が縮こまるのを感じる。
頬を何かが掠めた。知っている感触。直江の指だ。
「しかし、そろそろ、こちらを見たらどうだ」
えっ、と声が漏れた。ああだのううだのも、一緒に溢れる。
連続で、別の痛いところを突かれてしまった。
会話、直江の声を聞くことは、なんとか耐えている。
でも、顔を見るのは。まだ、ちょっと。難しいんじゃないかな、って。
思うんですけど、口に出せる気がしませんね。いかがでしょうか。この狼狽っぷりで、伝わるでしょうか。
文字通り言葉を濁しながら念じる。今ほどテレパシー能力に目覚めてくれと願ったことは無い。
しかし、まあ、自分のことながら、確かにそろそろしゃらくさくなってはきている。あんまりぐだぐだゆっくり慣れようとするのも、時間の無駄だ。遠慮無い攻撃をされたおかげで自棄になっているとも言う。
というわけで、勢いを大事にする。直江の左腕に触れた。
「……あー、なお、え。提案があるんですが」
名前を呼ぶのもまだどぎまぎするんだよなあ。
「なんだ」
「いやー、その、えと」
間を埋めようとして、失速しかける。急いで腕を引っ張って、背中から外させた。その腕を滑るように己の右手を走らせ、先にある大きな手と重ねる。
指を絡める。親指で、手の甲を撫でた。
息を呑む気配。
「ショッ、ク療法に、お付き合いいただけませんでしょうか」
前半は詰まって、後半は早口になった。良いのだ、勢いが大事、勢いが大事。言い聞かせて、直江の返答を待つ。
手が握り返──。
天地がひっくり返った。
「な……」
「名前」
薄暗い部屋。耳をくすぐるカーペットの柔い毛。腹の上の重み。癖で交わる視線。
静かに、ぎらりと、鈍い眼光。
今度、息を呑んだのは。
「私も、お前に会えぬ間、愛を募らせていた」
それがどういうことかわかるな。直江は言った。
私はといえば、ようやく視界に入れた直江の表情に心臓を逸らせて、慣れきってしまったこの体勢に体温の上がるのを自覚して、──意図した通り、本当に、ショック療法が成されるのだと確信していた。
「……そ、の、……よろしく、お願い、します」
直江が笑う。笑い声が、心臓を揺さぶる。
画面が暗転して解決なんてチープにすぎるけれど、効果のほどは確信しているから、まあ、私に言えるのは、もうこれだけである。
title by 金星 201120