──大惨事。
 そう表現する他無かった。

「……っ、っ、……っ」
「…………」

 呼吸を乱す私と、何も言わず、何も言えず、きっと気遣わしげに私を見下ろしているであろう直江。
 私はただ、行動を起こしかねている様子の直江に対し、どうすれば良い、どうしよう、と、同じように混乱していた。

 事の発端は、……そう、大したことではない。大したことではないから、余計に困る。
 直江の仕事のタイミング、私が友人達と数日の旅行に行ったタイミング。それらが重なって、同棲を始めて以来、初めて、しばらく顔を合わせない日が続いた。声を聞くことすら無かった。直江は電話が好きだけれど、友人と旅行している最中だからと首を横に振ったのだ。
 旅行は楽しかった。友人のことは好きだし、観光も旅館も素敵な場所だった。直江に会えないのは寂しかったといえば寂しかったけれど、直江が居なければ何も楽しくない、なんてことはない。心から楽しんだ。
 だから、お土産も買って、土産話も持って、ごく普通に帰宅した。まだ昼間で直江は仕事があったから、ひとりの家でシャワーを浴びてさっさと寝た。疲れていたのだ。直江も、色々問題はあれど優しい奴なので、先に帰宅したのに風呂や食事の準備もしないとは何事か、みたいな話にはならない。こちらだって仕事帰りの直江のために何もしない申し訳無さはあったし、直江も、家事のことは何も言わずとも、自分の荷物の整理ぐらいはしろ、とは言っただろうけれど。
 ……「だろうけれど」、だ。そんな表現に留まるのは、深夜──現在、布団で私と顔を合わせた直江に、まともに言葉を話す暇が与えられなかったためだ。
 のっそり目を覚ました私へ、直江は「起きたか」と言った。
 その瞬間、叫んだ。

「ぎゃあ!!!」

 まさしくお手本通りの悲鳴。
 七転八倒の勢いで、私は壁に背をぶつけた。直江が「どうした!?」と言ったところに、また、「ぎゃあ!!!」
 薄暗い寝室の中、私は完全に動転していた。
 直江の声を、聞けなかった。
 直江の顔を、見られなかった。
 「聞いてはいけない」、「見てはいけない」と、私の頭が叫んでいた。
 理由。
 ──空っぽだった胃の中に、突然大量の家系ラーメンを詰めたらどうなるか。
 直江にしばらく会えなかった私に、突然直江の存在をぶつけたらどうなるか。
 そういうことである。
 どういうことだよって、こういうことだよ。こういうことになっちゃっている以上、こういうことになっちゃうんだよ、としか言えない。
 直江の声をちょっと聞いただけで心臓が爆発しそうになるし、まだ顔を見られていないけれど、見たら多分やっぱり心臓が爆発するだろう。なんなら、現状、「こんな頭がいかれそうになるほど想わせるとかどういうことだ、ふざけるな」という怒りすら沸いている。理不尽である。
 しかも困ったことに、私は直江に拒絶の言葉を吐きたくないので、「少しの間黙ってて」、「近付かないで」とはっきり言うのは難しい。難しいが、意外と察しの良い直江は何も喋らなくなった。お喋りなのに。「ぎゃあ」とか言ってごめん。直江のことだから、旅行帰りの私と沢山話したい、久しぶりだから沢山沢山、と思ってくれているだろうに。
 申し訳無い。申し訳無いのだけれど、「直江のこと、自分でも思ってた以上に好きすぎるみたいで、今対峙したら本気で気が狂いそう」だなんて口にする覚悟はまだ決まっていない。もう少し落ち着いてからではないと。今は頭がぐるぐるしていて、直江に「好き」と言うのも駄目そうなのだ。直江への「好き」で壊れそうなのに、その爆弾に自ら触れるなんて自殺行為である。一周回ってむかついてもいるし。「好き」が重すぎて引かれる、なんてことにはならないだろうという点だけは救いだ。直江が直江で良かった。
 だから、とりあえずある程度で良いから落ち着かなければならない。落ち着いて話せるようになって、直江に事情を説明して、何か嫌なことがあったとかじゃないんだよ、と、……理由を言うかどうかは別として、心配かけてごめんね、と、伝えなければ。
 でも、どうやって落ち着いたら良いのだ。
 目の前に起爆装置が居るのに、どうやって落ち着けというのだ。

「…………」

 直江は相変わらず、私を見つめている、と思う。身動ぎの音はしない。近付く気配がしていたなら、私の内臓は緊急事態を告げるはずだ。
 とはいえ、膠着状態でいるのは、本当にいただけない。直江を不安がらせたくない。私だって、直江のことが大好きだから喋ったり笑ったりしたいし、このままでは本気で日常生活に支障が出る。
 どうやって解決するか、ぐちゃぐちゃの頭を頑張って働かせる。しかし、思い浮かぶ対処法はひとつだけ。
 ショック療法。
 生憎、私に軍師の才は無いのである。

「……ちょ、と、何も言わずに。
 だ……、だきしめて、もらえませんか」
「…………」

 直江は答えなかった。けれど、薄い暗闇の中で、人影が動いた。耳の奥で、血管が膨れてどくどく言う。
 衣擦れと共に、影がゆっくりやって来る。その動きの遅さは、私の脳が鈍っているせいか、直江の気遣いか躊躇いか。
 声も聞けないが、顔を見るのも無理だ。できるだけ視界に入れないようにする。
 でも、恐らくだけれど、触れ合うことは克服の第一歩として十分だろう。
 声と顔が特別駄目だというのは、つまり、直江を「直江」として認識するのが良くない、ということを意味するのではないだろうか。体温なら、「直江」と認識するのは──いや、私は直江の体温を判別できそうなものだ、と自分でも思うけれど──また違うはずだ。
 眼前に腰を下ろされる。腕が伸びてくるのを、横目で見た。
 ぎゅう。そっと身体を引かれるみたいにして、直江の腕の中に収まった。
 心臓は、……心臓は、うるさい。とてもうるさい。どっどっごうごうと血液の音が聞こえる。
 それでも、これはまだマシだという確信がある。直江にも協力してもらった、これが一番挑戦しやすい一歩だとも思った、ならば乗り越えないといけない。直江の背に腕を回す。
 深呼吸をする。
 数日ぶりの、直江のにおいがした。
 数日ぶりの、直江の熱を感じた。
 ……まずは、これに慣れよう。慣らそう。なんとしてでも。

花かんむりの厄日

title by 金星 201030