私は決して強い人間ではない。それは昔からのことでもあるし、現代に生まれ変わってからは特にその傾向が強くなったようでもある。
だからだろうか、どうも、今日はだるくて仕方が無い。
先人の知恵がたっぷり詰まったスマホアプリは、気圧の変化と注意喚起を訴えかけていた。その画面をぼうっと見ながら、私は、せっかくの祝日を布団で過ごしかけている。
…………いや、過ごしかけている、じゃないんだよ。勿体ないだろうが。
全身に「だるい!」という感情を循環させている身体を叱咤して、ぐずぐず起き上がる。緩慢な自分の動きに苛々する。でも、結局こういうときは、動いてみれば意外と動けたりするものだ。ちょっときついのは確かだし、昼も目の前だけれど、朝ご飯ぐらいは食べなきゃ。きちんと食事をしないと煩くなるのが2人も居る。嘘を吐くのが下手なのと、2人共異様に察しが良いのとで、誤魔化してもバレてしまいがちだ。政宗なんか、今日みたいな日はLINEで尋ねてくる可能性すらある。
冷凍していた食パン2枚をトースターに突っ込んで、その場に座った。フローリングの固く冷たい感触が臀部に伝わる。冷めた微糖コーヒーが甘く感じられなくなって、苦いばっかりになるのと似た変わり方で、焦燥感が胸の奥で存在をざわざわ主張し始めた。さっきはなんでか腹立たしかったのに、今度はなんだか心細い。こういう気持ちは、虚しくなる。なんにも心細くなる必要なんてないのに、寂しがる自分が奇妙な生き物に思えてくる。人間なんて、ほんとうはひとりで生きていけるはずなのに。情や執着は一時のものと相場が決まっている。それは、人間が、ほんとうはひとりで生きていけるからだ。誰かと居るのはただの娯楽だ。そういう、強い生き物のはずなのだ。そのはずだ。
だというのに、私はひとりで生きていけないみたいで、虚しくなる。正しいかたちになれない私がもどかしくって、情けなくって、余計に心臓のあたりがからっぽになっていく。ぽっかりと穴が開いて、なんにもない空間が広がっていく。温度、空気すら感じ取れず、ひたすらに真っ黒なその場所は、まるでブラックホールのようだ。いや、そうに違いない。私はこれからこのブラックホールに身体も心も吸い込まれて、消えてしまうのだ。ほら、今、足を一歩踏み外してみれば、私はひといきにこの中へ。
ちいん。
トースターから音が鳴って、ぱっと顔を上げた。立ち上がって中を見る。勢い任せに蓋を開ける。トーストはもうすぐ真っ黒になるところだった。茶黒の焦げ目はどう見積もっても口当たりが悪そうで、溜め息を吐く。苦笑いしてみる気力は無かった。申し訳程度にチューブ入りのバターを塗って、焼けた耳に食らいつく。がりり、と音がした。消費期限が迫って割り引かれた、もともと安価なスーパーのオリジナルブランドの食パンは、取り立てて美味なものでもない。同時に、取り立てて不味いものでもない。それを半端なラスクに化けさせたのは私だ。どうしようもないトーストを食べながら、ベッドの上に放り出したスマートフォンに目をやった。
メールが来ていた。
「おじゃまします」
合鍵を使って中に入る。途端、まだ帰って来ていない家主の香りが鼻を掠めた気がして、立ち止まった。心臓が細い糸で締め付けられる。
なんで居ないの、馬鹿。なんで匂いだけ残していくの、馬鹿。帰ってくるまでもう少しかかるとは聞いていたけれど、予想以上に精神衛生が悪化してくる。……あと数時間の辛抱なんだと思いたい。
気分が暗いせいで、脱いだ靴を揃えるのもかったるい。いやな顔をされるのはもっと嫌だから、ちゃんとやるけれど。
リビングの方まで踏み込むと、彼の香りはもっと濃くなった。なんてものを嗅ぎ分けられるようになってしまったのだろうか、私は。嗅覚の鋭さにもオンとオフが欲しい。明るいときの私なら、安心するとか好きで仕方ないとか、そう感じてしまう自分を腹立たしく思えども、とにかくプラスな受け止め方ができたはずだ。少なくとも、こんな気持ちには絶対ならない。寂しくて、ひとりぼっちで、取り残されたみたいで、世界から自分だけ切り離されてしまったような気持ちには。
「直江の馬鹿。直江のばか。なおえのばか……」
ソファに倒れ込んで、張られた布に顔を埋める。暗くなっているときにマイナスな言葉を口に出すと、一気に溢れて止まらなくなってしまうのを、言ってしまってから思い出した。八つ当たりでしかない言葉を喉に詰まらせて、深く息をする。相変わらず直江が恋しくなるばかりだけれど、悲しいことを言い続けるよりかはマシだ。
ああもう、ほんとに、なんでこんなに寂しいんだろう。ずっと前は、もっとひとりに慣れていたはずなのに。
呼吸が落ち着いてきた頃、のそのそと冷蔵庫まで向かう。ストレスが溜まったときどうするかは、大体いつも決まっているのだから。
この家の冷蔵庫は、半分くらいは私の管轄である。薄力粉はともかく、ベーキングパウダーや純ココア、チョコレートといったものは私が持ち込んだ。卵、バター、砂糖なんかも勝手に借りて、次々材料を混ぜていく。チョコレートの湯煎みたいなコツの要る作業も、料理となれば負担に感じられないのだから不思議だ。むしろ、鬱憤をぶつけるようにしてボウルの中身をかき回す作業が心を晴れやかにしていく。こういうとき、料理を教えてくれた政宗に対して感謝の念が沸き上がる。こうも簡単なレシピは、彼の好みではないだろうけど。気が済むまでケーキになる生地を作ったら、バターを塗った炊飯器の内釜に流し込んで、炊飯。チョコレートの甘い匂いが広がった空間で、ぐっと伸びをした。ちょっとはマシになったかな。換気扇をつけつつ、炊飯器に表示された時間を見た。二度炊飯しないといけないけれど、直江が帰ってくるまでには焼き上がるはずだ。
……それまでは、どうしようかなあ。視線をさ迷わせる。写真はあんまり好きじゃないと言ったのに無理矢理撮られたツーショットなんかが、ご丁寧に写真立てへ納められているのが見えた。次に、近くのハンガーに掛けられている彼のワイシャツ。真っ白なその服は、ちょうど写真の中で直江が着ているのと同じものだ。大方、わざわざ近くに飾ってあるのだろう。思い出せるようにとか、そんな理由があるに違いない。
気付くと、そちらに寄っていた。腕が勝手にシャツを引きずり下ろす。顔にかかった柔らかい感触と同時に、真っ白い視界が、部屋からは消し去ったばかりの香りを連れて来た。それを肺いっぱいに吸い込んで、思い知る。
馬鹿なのは私だ。どうしたって、彼のことが好きで好きで、誤魔化したって、ほんとうは彼に傍に居てほしくて、ほんの少しも待っていられないのだ。ケーキを作りたかったのも事実だけれど、自分にとって何が一番の癒しになってしまったのか、心の底では分かっていた。
直江のシャツに腕を通す。長すぎる袖はまくらずに、口元に当てた。いい匂いがする。石鹸のような、違うような、うまく言えないけれど、とにかく清潔な香りだ。変態の挙動でも気にするもんか。誰も見てないし構いやしない。こちとら心細いのだ。余計に心細くなる行為だけれど、それでも彼の帰りを待ち望んでいるうちは、縋らずにはいられない。
……はやく帰って来て。はやく。
祈りながら目を閉じた。
「ただいま帰ったぞ!!」
鍵が開く音と同時に彼の声がしたとき、炊飯器はまだ一度も鳴っていなかった。予想より遥かにはやい彼の帰宅に驚いて、立ち上がれもせず玄関を見る。自分を抱き締めるようにしてシャツを抱え込んでいた腕を下ろした。直江はそんな私に気付くと、ぱっと目を輝かせる。
「そんなにも私が恋しかったか!」
その言葉に俯いた。こんな格好をしていれば、流石に誰だってわかる。だけれど、それを改めて指摘されるのは、現状を──弱い自分を突き付けられて、つらい。
だめだな、と思う。弱っていると、ちょっとしたことで簡単にぐらぐらしてしまう。身勝手なぐらいだ。帰って来たなら喜ばなくちゃ、図星を突かれたなら怒ってみせなくちゃ。いつもの通りに。そういう風に逸っても、お腹の奥がどんどん気持ち悪くなっていく。逆効果らしい。
直江が「名前?」と口にした。どたどたこちらに近付いて来る。床ばっかりの視界に、彼の膝が現れた。間髪入れず、抱き締められる。ぞわわ、と痺れが腰から肩を駆け上がった。
「よしよし、この寂しがり屋さんめ」
少しだけ苦しい程度の力が、彼の腕に込められている。優しく髪を撫でられて、ようやく息を吐いた。
こういうときの、彼の包容力は侮れない。懐に入ってさえいれば、いくらか大目に見てもらえるし、とびきり優しくもしてくれる。今まで堪えたぶんを放出するように全力で抱き付き返して、胸元に鼻先を埋めた。ついさっきまで頼っていた香りよりも決定的に、あたたかく鼻腔を擽られる。肩が震えた。
ずっと、この人に助けてほしかった。
昔の私が憤死しそうな考えも頭に浮かぶけれど、今の私には関係の無い話だ。「なおえ」なんて、憤死どころじゃ済まないような声で、彼の名を呼ぶ。呼ばれた当人は、髪を梳くことで応えてくれた。
「何かあったのか」
柔らかくて静かな声。私以外の誰だったら聞いたことがあるのか見当もつかない響き。
落ち着いてきたからか、痛いことを口に出されても苦しくならない。そのうえ、優しい声色は、冷たくなった身体の奥に対する特効薬だった。外のと混ざったところから正確に彼の香りだけを拾い上げる作業に没頭しつつ、首を振る。
「何も無かった。だけど、どうしてか元気が出なくて……。
はやく帰って来てくれて、たすかる……」
「そうか? 待ち遠しかっただろう」
「ううん……」
はやく帰って来いとか馬鹿とか散々言ったのに、それは黙っていた。多分だけど、そういうのも甘え方のひとつだと思う。多分、でも、私の自己解釈である可能性には目を瞑って良いはずだ。どうせ、直江にはバレている。直江も、察しが良いときは察しが良いのだから。
だからそのあたりは彼に任せて、めいっぱい体温と香りに浸る。すると、身体も頭もとろけていくような心地になっていく。思考がぼんやりとして、からっぽになった場所へ、次々と直江が入り込んでくる。吸気が直接脳に働きかけてきている、と言うとあぶない薬のように聞こえるけれど、私にとっての直江はそういうものな気さえする。
だって、おかしい。
失うのが怖くてひとりで居た私だから、ひとりに慣れているのと同時に、当然失うことの怖さも知っていた。だけど、今のこれはその比じゃない。
ひとりで居るのがどうしようもなく辛いときがあるのも、そういうときに彼が居ないと怖いどころじゃ済まされない喪失感を覚えてしまうのも、昔よりも、もっともっとひどい。
直江のせいで、私はずいぶん変わってしまっている。そう思う。
逃げると決め込むならともかく、頭を蕩かして考えるのを放棄するなんてこと、普通ならしたくもないのに、感覚すべてで直江を摂取していたくなるのも、ほんとうに、おかしい。
そして何より、それを許せてしまっていることが、一番おかしい。
直江が居ると、全部許せてしまうことが、一番おかしい。
溜め息を吐いてみるけれど、そこに失望も絶望も無いのは明白で、自分を疑う。
「苦しんでいるお前には悪いが、こうして甘えられるのは嬉しいな」
「……別に、良いよ。お前が居てくれるなら、それで良い」
「はは、そうかそうか! まったく、私の名前は可愛いことを言う!」
「あ、やっぱ良くない、声はちょっと抑えて、浸れない……」
直江の背をぺしりと叩く。「ひたる?」という不思議そうな声には無視を決め込んだ。それでも直江は私の言ったとおり静かになる。私をぎゅっと抱き締めて、頭を優しく撫で続けていてくれる。気付くと、なにやら私を苦しめもした嗅覚がにぶくなって、代わりに触覚が鋭敏になってきていた。次の段階へ移行した、みたいなものだろうか。確かに、ずいぶん満たされた心地になっている。
本能が求めるままに従って、今度は手の感触を追いかける。触れ合うところのぬくもりも恋しくて、彼の胸元に頭を擦り寄せた。直江が嬉しそうに笑い声を零す。安心する。直江は、私に笑ってくれる。
私も、甘やかし上手な人に引っかかってしまったものだ。平時にどれだけ反抗していても、いざと言うときは、この人を求めてしまう、そんな人に。
苦笑いが漏れる。そのまま、彼の体温を奪い取るぐらいの気持ちで酔いしれる。
そうして何分も何分も頼っていると、甲高い電子音が耳に届いた。
ピイイ、ピイイ、と仕事の完遂を主張するのは、最早存在を忘れていた炊飯器である。
「ああ、微かに甘い匂いがすると思ったら」
「ん、ケーキ焼いてた」
ちょっと名残惜しいけれど、もう気分は良くなっていて、簡単に直江の腕から離れることが出来た。音の根源を見に行く。蓋を開けると、熱気がぶわっと顔を覆った。もう一度炊飯しないといけないレシピではあるものの、焼き加減は順調の様子。私と炊飯器にかかればこんなものだ、朝のようなヘマはしない。
蓋を閉じて、スイッチを押す。着いて来ていた直江も、その動作をうずうずと見ていた。彼は甘いものが好物なわけではないけれど、私が作ったものはなんでもかんでも嬉しがる。焼き上がったときの様子も想像に易くて、軽い足取りで冷蔵庫に向かう彼へ向ける視線が優しくなるのを自覚した。そんな直江は、冷蔵庫からお茶を取り出そうとしたところで、動きを止める。
「しまった、洗面所へ行ってくる」
そう言って踵を返した彼に、あっと声が漏れた。そうだ、こいつ、普段は帰宅するとまっすぐ手洗いうがいに向かう模範生なのだ。だというのに、それをせず、私を優先してくれた。些細なことだけど、思い知る。
やっぱり、私のような奴には甘い。
いや、私に甘い。
──私だって、分かっているのだ。直江がいくら懐に入れた相手には優しいと言っても、私に対しては度が過ぎている、と。あの直江が、励ましの言葉をひとつも口にせず、ただただ癒すことに徹するのは、きっと珍しいことのはずだから。
変わってしまったのは、私だけじゃない。
それが良いことなのか悪いことなのか、私は直江を変えてしまって良かったのか。疑問に思いはする。
けれど、変わってしまった私は、彼が「焼き上がるのが楽しみだな、私は名前と共に菓子を食うのがほんとうに好きなのだ!」などと声を上げるのを見ると、なんだかどうでも良くなってしまうのだ。
title by 金星 180324