006

 私の恋人には、「ダーリン」なんてあだ名がある。理由は多分、なんてことはない。彼の名前が「ダリ」で、教師としても、生徒との距離が気安いからだ。だから、彼によく慣れた上級生からは特に、「ダーリン」と呼ばれている。
 そのことを、悪いことだとは思わない。むしろ、教師が生徒に好かれるのは──舐められない範囲で、だが、彼に限ってそんな隙を見せるわけがない──良いことだ。
 ただ、今回の問題は。
 
「名前も呼んでみない?」
「寝言は寝て言ってください、ダリ先生」

 生徒に囲まれて、ダーリンダーリンときゃあきゃあ言われている彼の姿を、私が目撃してしまった、のを、彼本人に気付かれたことだ。私は決して、決して、彼が生徒に親しまれているのを悪いことだと思っていないのに、ダリはやたらと「名前も呼べば良いのに」とせっついてくる。まるで、私が、彼が生徒にあの呼ばれ方をしているのを、嫌だと思っているみたいに。
 まったく。囲まれる彼と目が合ったときには何も無かったのに、仕事を終えて二人になった瞬間に、これだ。公私混同をしない悪魔だとわかっているし、そこが好きだけれど、こんな風にされると、油断しているところに付け込まれるみたいなものだ。

「いっそ、僕が名前をダーリンって呼ぶ?」
「……何が『いっそ』なんですか」
「今ちょっと迷ったでしょ~!」

 ニコニコ笑うダリは、彼と仲良くする生徒と同じレベルできゃっきゃとはしゃいでみせる。ついにはこちらの頬を突っついてくるものだから、まったく、何が目的なんだ。
 じっとり視線を向けてみると、ダリはなおのこと口端を吊り上げる。

「名前さあ、今はオフだよ」
「はあ、それはそうですけど……」
「まだ肩から力抜けてないよ~!」

 そう言って、引き寄せられたのは、彼の腕の中。いきなり何をするんですか、と言おうとして、言おうとしたはずの口が、動かなかった。代わりと言わんばかりに、身体が勝手に、ダリの胸にもたれかかる。
 あれ。
 自分で自分にびっくりするも、その間にダリの手は私の背中をぽんぽんと優しく叩く。子供扱いされている気がしたのに、やっぱり非難の声は出なくて、身体の芯が融けるみたいに制御が効かなくなる。やわらかくなる。

「そうそう、それで深呼吸しちゃお」

 囁くような声に、不思議とすんなり従った。二、三回、大きく息を吸って吐くと、もうすっかり。

「…………うわあ…………」
「頭抱えなくて良いのに。僕は嬉しいよ?」
「そんなこと言ったってですね……」

 ダリの言う通り、肩に入っていた力が抜けて、自分を抱き締めているのが「教師統括」ではなく「恋人」だと認識が変わる。以前、「名前は仕事熱心すぎて、真面目で頑固だよねえ」とダリに笑われたのを思い出して、大きく息を吐いた。この溜め息は、それだけじゃないけど。

「ダリ」
「なーに?」
「……ほんっとのほんとに、本気で、悪いことだとは思ってないんですけど。生徒と仲良いのは。
 でも、ちょっと……」
「ちょっと?」
「…………私が気安くできないときに気安くできる間柄、羨ましいと思わないことも無いです」
「そうそう、そういう顔してたしてた!」
「………………はあ…………」

 たった今気付かされたことを言葉にすると、ダリがきゃらきゃら声を上げる。私は自分が情けないやら恥ずかしいやらで、また息を吐くばかり。こんなところ、生徒の前では晒せない。いや、生徒の前じゃなくったって。ただでさえ、私の恋人は、「教師」の鑑みたいな男なのだ。そうでなければ、このバビルスで教師統括なんかやっていないし、教師歴も私よりずっと長い。
 だから私は、プライベートも生徒に捧げているんじゃないかってぐらい真剣に「教師」をやって、それこそ、たかが恋仲が関係しているからって生徒を羨むような存在ではあってはならない、のに。
 それを揺るがそうとするダリ本人が、私の「教師」を剥がすから。

「良いんだよ、オフはオフなんだから、気を抜いたって」
「……そうは思えないんですよ」
「あ、今カルエゴ先生を手本に挙げようとしたでしょ。いっけないんだー、恋人とふたりっきりなのに、他の男の名前出すなんて」
「名前出してないですよ」
「図星だから同じようなものじゃない?」
「…………」

 ずっと弓なりになっていた彼の目が薄く開かれて、こちらを見据えた。思わず閉口して目を逸らすと、ぎゅうっと私を抱き締める腕に力が入る。

「これはお詫びにダーリンって呼んでもらわないとな~」

 で、次に出た言葉がこれだ。
 そんな理由を付けてまで、私にそのあだ名で呼ばれたいのか、──私の自覚していない無意識下に、彼をそう呼びたいという願望があって、私の気付かないそれを、彼が汲み取っているのか。「教師」から脱したばかりの頭ではまだ判別がつかない。
 もしかすると、たった数音で終わるのに未だ口にできていないことが、真実を示しているのかもしれないけれど。

「ね、呼んでみてよ、僕のハニー」

 浮ついた頭じゃあ、やっぱり、考えられそうにない。



230130 約30の嘘