11

 クリスは、私を避けていると思っていた、のに。

「名前。話がある」
「……え、ええと……」

 部屋の前で、久しぶりに聞く声がした。大人の男の人の、低い声。耳に慣れていないけれど、その響きに面影はあって、クリスのものだとわかった。
 扉を開けるかどうか、逡巡する。
 今、トーマスは居ない。たぶん、そのタイミングを狙って来たんだと思う。再会してからの2人は相容れていない──トーマスがクリスに突っかかっているに近い?──様子だから。トーマスが居る時に私のところに来たとしても、彼はクリスが私に話をするのを良く思わず、中断させてしまう、ということもあり得る。
 ……トーマスが居ない時に話をしたとしても、彼が後から知ったら、そのとき怒るだろうけれど。
 クリスのことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。でも、トーマスのことを考えると、どうするのが正しいのかわからなくなる。扉の前どころか、少し近くに寄ったところで、立ち止まったままになる。
 答えを返せずにいると、また、声がした。

「開けなくてもいい。用件だけ伝える」
「……う、うん」

 頷いたあと、思わず黙り込んでしまった。
 静かな声だった。感情が無いとまではいかない。でも、冷たい音をしていた。記憶の奥まったところに大事にしまっている懐かしい思い出を、ほとんど想起させられないほどに。
 穏やかだったクリスが、無情な人間のように振る舞うこと。それは、少し悲しかった。離れていた間、クリスがどれほど辛い想いをしてきたのか、自分勝手に想像してしまうことも、やるせなかった。
 私の脳内で何をされているかも知らず、クリスは言う。

「お前の発作があるだろう。
 あれに効く薬を、私の伝手で用意した」

 ──何を言われているのか、わからなかった。

「もちろん、使わなくても良い。
 そもそも医師の診察無しでの薬の処方など、認められた行為ではない。とても危険だ。薬の選択肢も複数あり、個々人によってどの薬が効くかも違う。本来は医師と共に様子を見ていくべきものなのだ。
 端的に言ってしまえば、アンダーグラウンドの産物、手段となる。
 また、お前が私のことを信用できるはずもない。処方箋は入っているが、安全性を保証するものにはならないだろう。
 使うかどうかは、自分で決めろ」
「……、そ、んな……」
「……お前はきっと、自身でではなく、Ⅳに相談して決めるのだろうが。まあ、それも構わない」

 矢継ぎ早の言葉。飲み込めない。まだ。まだ。
 なんで、どうして。問いが頭に浮かび、弾けずに増殖する。
 クリスの優しくない態度。
 身体の異変に苦しむ私を放って去って行ったこと。
 冷たい──冷たさを装っているのかもしれない、声。
 彼の言うように、非合法な手段で得たのであろう、薬。
 様々な事象に脳を刺される。
 優しかったクリスが、今は優しくなくなった、と思っていた、なんて。……なんて。なんて。
 これだから私は駄目なんだ。表面上でしか物事を見られない。クリスの表層だけを見て、クリスの中身まで変わったと思い込んでいただけだったんじゃないのか。いや、そう断ずるのは早いし失礼だ。クリスは本当に変わってしまって、だけれど何らかの思惑や、気紛れで、私を助けようとしてみたのかもしれない。そうだとしたら、クリスに私の考える「優しい」を押し付けるのは彼への侮辱だ。
 ぐるぐる考える。
 わからない。
 なんで。どうして。
 クリスは、何を考えているの。
 私には、ちっともわからない。

「薬はここの床に置いておく。受け取っても良いし、そのままにしても良い。捨てても良い」
「く、りす、あ、あ、ま、……」
「では、私は行く」
「まっ、…………、……て…………」

 混乱しているうち、クリスが話し終えた。足音がし始まって、離れて行った。
 引き留めて、話を聞くことは、できなかった。
 気付けば身体が強張っていたようで、硬くなった膝を無理に折ってへたり込む。両手で頭を抱え込んだ。心身がぐらぐらするときは、縮こまるに限る。
 やがて深呼吸することを思いついて、ある程度落ち着くまでそれを行なった。立ち上がった時によろめきつつ、扉を開き、件の薬が入っているらしき小さな紙袋も回収した。
 当然のことながら、クリスの姿はもうどこにも見当たらなかった。


「……で? これが薬だと」
「う、ん…………」

 トーマスが帰ってきて早々、「何かあったな?」と言い当てられた。顔色でわかるとかで、相談するタイミングを自分では掴めなかった私には、少し有り難かった。
 いつもの定位置で、私は薬が入った紙袋をトーマスに渡し、事のあらましを説明した。クリスの名前を出した瞬間に顔を思い切り顰められたけれど、トーマスになら怒られても良いから、怖いけれど、怖くはなかった。トーマスに嫌われたり、傍に居てもらえなくなったりする以外なら、何をされても良い。
 トーマスは手にした紙袋を忌々しそうに見つめる。表情も雰囲気も、苛立ちを隠そうとしていなかった。私は膝の上に意識を落とし、両手を組み合わせて時間を潰す。彼が結論を出すまで待とうと思った。トーマスが捨てろと言うなら捨てるし、飲めと言うなら飲む。彼に都合の良いように在れるのが一番安心するから。どうすると都合が良いのか、本人に教えてもらいたかった。
 けれど、彼は予想外のことを言った。

「お前はどうしたいんだ」
「……、え?」
「飲みたいのか、飲みたくないのか、どっちだ」
「…………え、え? えっ……?」

 判断を、私に委ねてきた。
 トーマスの不機嫌そうな目は、それでも真っ直ぐに、私を見据えている。思わず顔を上げた私は、射抜かれて、視線をあちこちに行かせた。
 だって、どうしてなのかわからない。
 私はトーマスのために在りたいのに、そのつもりなのに。……我儘で、甘えていると自覚はしているけれど、トーマスに正答を教えてもらわないと、私は何をしたら良いのかわからない。わからないものは、わからない。私はトーマスじゃないし、私なんかには、他者が何を考えているのか察することはできない。
 私の抱えているものが関わっていて、クリスが関わっていて、トーマスが不機嫌になるような問題である以上、私が迂闊に決めることは難しい。自由回答を求められることや、複数の選択肢から選ぶことより、2択のどちらかを取る方が、もっと緊張する。50%も正解率があると、間違っていた時の落胆が強くなるから。……クリスのことで、いつにも増して弱気になっているというのも、ある。
 狼狽える。自由だった両手からは柔軟性が失われている。組み合わさったまま、塊のようになってしまった。その上に、彼の片手が覆い被さる。眼光は未だ鋭く、私を見ている。
 トーマスが、私に答えを急かすことはそうそう無い。不安な私がどうにか言葉を見つけるのを、いつも待ってくれている。今も、多分、急かさないでいようとしてくれてはいるんじゃないか、という気はする。でも、私は勝手にプレッシャーを感じてしまう。
 ──「自分で決めろ」。
 ──「お前はどうしたいんだ」。
 クリスとトーマスの言葉が重なって、私の頭にびっとり張り付く。目を逸らしたとしても必ず視界に入るよう、付き纏われているみたいに。
 トーマスは私に問いかけた後、何も言わない。クリス相手にか、それとも別の何かにか、ずっと怒っている様子なのに、やっぱり私の言葉を待ってくれている。……優しい。この優しさに、私は応えないといけない。ぐちゃぐちゃの言葉でも、ゆらゆらした意思でも、示さないといけない。怖いけれど、そうしないといけない。
 迷いながら、口にした。

「のんで、みたい。
 わたし、トーマスに、……めいわく、かけない、で、いられる、かも、なら、……わたし、……わたし、う、うぅ、う……、う……」
「あ!? お、おいっ」
「うう……、うっ……」

 途中から込み上げてきた正体不明の涙は、抑えきれなかった。今度はトーマスが狼狽して、私をぐいっと引き寄せた。強く抱き締められる。
 彼は「迷惑じゃねえってのに」とぼやいて、私の後頭部に手を置いた。私は呻きながら、「知ってるけど、でも」と言う。
 トーマスがいくら私に優しくても、私が困った奴であることは、彼の負担となっているに違いない。こんな風に泣いてしまうのだって情けないし、こんな風に泣いてしまうこと自体も、情けない。私は、困った、情けない奴。
 だけど、だからこそ、その「困った、情けない奴」が「前よりはちょっとだけマシになった奴」になれば、トーマスもちょっとだけ楽になるだろう。そうなるはずだ。そうだとしか思えない。

「……で、も、とーます、すてろ、って、なら、すてる、いらない、わたし……」
「あー、分かった! 分かったっつの!
 飲みたいんだろ、なら捨てるな。俺は……、どっちでも良い」
「…………そ、なの?」
「そうだよ。そうだ」

 トーマスの語調は、どこか乱暴だった。私に言い聞かせてくれるときの声色と、全然違っていた。
 本当は、私が薬を飲むのは嫌なんじゃないだろうか。そう思って、そう聞きたいのに、どう聞いたら良いのかわからない。どんな聞き方をしても、トーマスは言葉を覆さないだろうから。
 結局私は、トーマスに従うことにした。原点回帰と自嘲するべきか、いっそ自分で自分を茶化す程度で済ませるべきか。こんなことさえ、私は判らない。
 またしても情けなくて、もっと泣く。トーマスは「怖がらせて悪かった」と。「……私が、勝手に、怖がっただけだから」「……そうかよ」なんて会話をしつつ、彼は私を根気強く宥め賺すと、踏ん反り返って言った。

「……ただし、薬がパチモンの可能性もある。Ⅴはトロンと仲良しだからな、何を考えてるか分かったモンじゃねえ。
 だから、俺も飲む」
「え、……そ、それ、だいじょうぶじゃない、よ。本物でも、本物じゃなくても、危ないよ」
「うるせえ、俺を舐めんな」
「…………うう、……うん…………」

 成されたのは危険な提案で、反論は、意味を成さなかった。
 トーマスが言葉を覆すようなたちでは無いのは知っていたけれど、危ないことをされるとハラハラする。首肯はしても、納得はしきれない。トーマスもそれを察したのか、「名前」と私の名を呼んだ。頬を掴まれて、また、がっちりと目を合わせられる。

「何かあったら、俺を頼れ。
 薬が合わないでも、なんでもだ。
 必ず、言え。俺に。必ず。
 ……解ったな?」
「……う、ん」

 トーマスの言葉は、迷惑をかけたくない私の気持ちと反するものだった。せっかく薬があって、もしかしたら、トーマスの負担を減らせるかもしれないのに、その負担をもう一度背負い込まれたようだった。
 それでも、私はどうしてか頷いた。
 彼の声が、先程とは違う、言い聞かせるときのそれだったからかもしれない。    

子守唄がなくても眠れるなんて

title by エナメル 190625