10

 この時がくると、いつも、「来た」とわかる。

「名前、名前、おい」
「は、ぁ、ハアッ、ハッ、あ、ハア、が」
「過呼吸になってる、吐け、吸うな。息を吐け」
「う、はぁっ、ハーッ、……っは、あ……、はーっ……」

 そう、そうだ、と、トーマスの声。立つ力も無くベッドの上。抱き締められている。背中を擦られる。髪を撫でられる。刺激が多い。けれど拒めない。突き飛ばしてでも拒みたくなる直前の量の外的刺激。ぐるぐるとぐちゃぐちゃにかき混ぜられる頭の中にぶすりぶすりと突き刺さる。不快。恐怖。痛い。辛い。辛い。辛い。苦しい。苦しい。どうして、どうしてこんな、こんな気持ちを、私が。
 どうしてこんなになってまで、私は、私は、生きて、

「名前、大丈夫だ。大丈夫だから。
 この俺が居るんだ、なにもかも大丈夫に決まってる、大丈夫だ」

 ──トーマスが居るから、どんなに苦しくても、私は生きている。
 それを思い出して、はっとする。喜ばしいのか、恨めしいのか、わからなくなって、わからなくて、わからなくて、わからなくて、指先でつまむ程度になるまで思考を手放す。手放しきるのはもっと恐ろしいから、ほんの少しは頭に留める。
 トーマスの言う通りに息をする。乱れが収まるよう、ゆっくり、吐いて、吐いて、吐いて、足りなくなったら、ゆっくり吸う。また吐く。吐く。吐く。ゆっくり、吸う。
 苦しい胸を掻き毟りそうだった手はトーマスに阻まれていた。手首を掴まれて、俺に縋れと導かれて、ほかに手段を思いつく余裕の無い私はそれに乗っかった。だから、今のトーマスの服の背中側はきっと、私のせいでしわくちゃだ。
 数分なのか数十分なのかわからない間、苦痛とトーマスの声の間を跳ね返り続ける。やがておさまると、頭に冷静さが戻ってくる。

「はあ、……うう、うう……、うう……」
「今度は泣くのかよ、泣き虫。
 ったく、大丈夫だって、なあ。お前には俺が居てやるから。絶対に。
 俺様が言う絶対だ、これほど覆らないことはねえだろ」
「ん、うん…………」

 ……精神的な病を患う者の多くが、突如として肉体的かつ精神的な苦痛を感じることがあるという。脳がバグを起こして、突然エラーを吐いているとか、なんとか。私も例に漏れず、時折、こうして前触れも無い苦しみを覚える。
 胸は苦しいし、息はうまくできないし、心臓は煩いし、頭は回らないし、あまりに頭が回らないから、自我が飛んで行ってしまいそうに思えて恐くなる。
 私よりも歳上の人の方が起こしやすいらしいそれについて、これ以上は、専門家にかかったことの無い私では確実なことは言えない。
 けれど、とにかく、ひたすらに辛いことは確かだ。発作の最中、こんなに辛い思いをしてまでどうして生きているんだろうと考えたり、発作が終わった後も、こうやって、なんでこんなに辛い思いをしなくちゃいけないんだろうと泣いたりするぐらいには。
 人間は理不尽な暴力に耐えられない、とどこかで聞いた。ならば、理由も無く突如訪れるこの発作にも、その性質は適用されるのだろう。とにかく、……もう、辛い、辛かった、しか、言葉が出てこない。情けない。

「……とー、ます……」
「あーあー、わかってる。また『こんな私でぇ~』だの、『ごめんねぇ~』だの言うんだろ。そんなのは今更すぎて何とも思わねえよ。何度言わせんだ」
「……ん、う、あ、ありがと……」

 トーマスに頭を撫でられる。「大丈夫だ」を身体的に表されているようで、私はこれが好きだ。涙でぐちゃぐちゃの顔を背けつつ、できるだけトーマスの服を汚さないように顔を離……そうとしたけれど、顔を彼の肩口に押し付けられてしまった。
 これは恒例のやりとりで、更なる迷惑をかけたくない私としては慌てるであろうところだ。特に、相手は今や極東エリアのデュエルチャンピオンとなった人だから、なおさら畏れ多い。
 でも、トーマスに「今更すぎて何とも思わねえ」と予め言われているせいで、慌てようにも慌てられない。それこそ、慌てすぎて今度は理由あるパニックを起こそうにも、そうはならない。
 ……完全に、私の扱いを把握されているわけである。
 それが気恥ずかしいやら申し訳ないやら嬉しいやらちょっぴり悔しい気もするやら、疲れた頭にはいっぱいいっぱい。
 私も私で、トーマスの乱暴な言葉遣いを怖がって思考停止せず、意を汲み取るまでのことを思考ルーチンに組み込めているあたりは、彼という人に慣れているのだとは思うのだけれど。トーマスの私に対する理解度と比べれば、足元にしか及ばないに違いない。
 トーマスの気分任せに腕を緩められて、ようやく鼻をかむ。解放感にほっとした。
 それにしても。

「やっぱりトーマスが、いちばん安心する」
「……当然だろ。お前の面倒は、俺が一番、ずっと、見てきてやってんだからな」
「うん。ありがと。わたしもね、ずっとだいすき」
「ッんな、馬鹿が! なんだそのっ、クソ!」

 トーマスの腕が空を切った。勢いで手が出たのを咄嗟に空ぶらせたという方が正しいか。こんなところにもトーマスの優しさを感じて、ちょっと笑んでしまう。するとトーマスがまた何やら呻くので、……面白いって言ったら、今度こそでこぴんぐらいは食らうんだろうな。

「ハァ、……Ⅲの方がわかりやすく優しいだろうによ」
「それは、……そう、かもなんだけど。
 それでも、私はトーマスが良い、から、えと、だから……」
「……イイ趣味してんな」

 つかれた悪態は、全然いやそうな声をしていなかった。
 とはいえ、トーマスはこう言うけれど、優しさを比べたところで、やっぱり意味が無いのだと思う。ミハエルだってものすごく優しいのは私も知っている。私にもとても優しくしてくれるから。でも、やっぱり、私はトーマスが良かった。
 そもそもの話、私はトーマスが私に優しくしてくれるから、トーマスを好きになったのではない。今の状況で言っても説得力は無いかもしれないけれど。
 小さい頃から、トーマスは意地悪だった。その時から、私は彼を好きだった。好きな人が優しくしてくれたから、嬉しかった。今も嬉しい。そういう簡単な話なのだ、本質は。
 優しくしてくれない人が嫌いなら、トロン様のことが嫌いなはずで──恐くはあるし、恨みそうにもなったけれど──、──そして、クリスのことも嫌いになっていたはずだ。
 ……この前、トーマスが居なかった日、クリスの目の前で発作が出た。そのとき、彼はしばらく私を見つめただけで、それ以外は何もせずに立ち去って行った。
 トロン様もそうだけど、クリスは私との接触を避けている節があって、廊下ですれ違うことすらほとんど無いのだ。それで優しさを感じるかなんて、言わずもがなである。
 うん。やっぱり、私はただトーマスが大好きだというだけ。
 横になったまま、トーマスにぎゅっと抱きつく。今の流れなら許される、たぶん、と思った。かくしてそれは許されたか、というのは、トーマスの笑う声と、髪を梳いてくれる指先で判断がつく。嬉しい。

「よーしよーし、お前はイイコだなァ。
 そういうイイコは好きだぜ?」

 ────あ。
 聞き間違いでなければ、だけど。
 いま、「すき」って。
 初めて、言ってもらった。
 トーマスは、気付いていないかもしれない、けれど。

「と、お、ます」
「ンだよ」
「だいすき、ずっと、いちばん、だいすき」
「……テメエも何度言う気だ、それ」

 いっぱい。  

幸福の糧、生煮えの贄

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