09
トーマスに、後ろから抱き込まれている。
いや、うん、そのこと自体は別に構わないのだ。トーマスが私のことをどう思っているのかは知らないけれど、少なくとも悪く思っているわけではないみたいだし、トーマスがそうしたいならそうしたら良いと思う。
……何より、あの一件の後から、危うかった雰囲気がもっと危うくなった気がする。だから、もし、これで気が紛れるからそうしている、とかが理由なら、私もほっとする。
とはいえ、さっきからずーっと私の両手を触っているのはどういうことだろう。指を1本1本確認するみたいに手に取ったり、手の甲や手の平をじっと見たりしている。真剣になっているのか言葉数も全く無くて、呼吸の音と静かな吐息がくすぐったい。
……今更ドキドキするとかはないけれど、品定めされているみたいでなんだかそわそわする。
しばらくされるがままになっていると、トーマスはようやく動きを見せた。私の手を離し、立ち上がる。暖かかった背中がすっと冷えて、胸の奥も寒くなる。あちこち触られた手は熱を持っていたけれど、トーマスの熱があるのとないのとでは、その意味が全く変わってくる。
でも、トーマスの気が済んだなら仕方ないよね。そう思いながら、立ち上がった彼を目で追う。何やら戸棚を漁っていた。やがて目的の物を見つけたらしい彼は、──なんとこちらに来て戻ってくる。その手には、爪切りと、爪やすりと、ハンドクリーム。あと、ネイル?
それらを持ってきたトーマスは、また我が物顔で私の後ろに座る。
「え、と、トーマス? どうしたの?」
「あ? これ見りゃわかるだろ。お前の手が荒れてるのが気になったんだよ」
「う、え、そ、そうかな……」
私が首を傾げると、トーマスが「大人しくしろ」と私のお腹あたりに回した手に力を込める。密着。あのあたたかさが戻ってきた。けれど、ちょっと苦しい。
トーマスは後ろから手を伸ばし、さっきみたいに私の手を掴む。そして、指を1本ずつつまんで、爪を切り始めた。器用だからか、切った爪が弾みでどこかへ飛んでいく様子は無い。
両手の爪を切り終わると、今度は爪にやすりをかけ始めた。軽い音と共に、指の先に白い粉が積もり始める。少しすると、ふっと息を吹きかけられて、粉を飛ばされた。衛生と掃除の話は知ったことではなさそうだ。
だんだん、頭の後ろに目が付いていたら良かったのにな、と思い始めた。私の背中でトーマスが真剣な顔をしているのは想像に易くて、実際に見てみたくなってしまった。
けれど、それが叶うはずもないから、トーマスに綺麗に手入れされていく自分の手を見下ろし続ける。
随分無言で夢中になっているけれど、トーマスはこれ、楽しいのだろうか。楽しいなら楽しいに越したことはないものの、何が楽しいのか私には理解しかねる。私なんかの面倒をこんなに見て。
彼は昔から私に優しくしてくれる。それはわかりやすい優しさの時もあれば、わかりにくい優しさの時も、わかりにくすぎて逆にわかりやすい優しさの時もある。……わかりやすすぎて、逆にわかりにくい、時も。
爪の保護のためとネイルを塗られる。ネイルだけどいやな匂いはしない。トーマス、そういうの気にしそうだもんなあ。匂いのしない製品を探したに違いない。大雑把に見えて、マメ。これもトーマスの大きな特徴のひとつだ。
それと、このエナメルは速乾らしい。あっという間に、爪にクリアカラーとイエローを使ったフレンチネイルを施される。──黄色。トーマスの前髪を思わせる色で、悪い気はしない。むしろ嬉しい。
トーマスは完成した爪をじいっと見つめる。せっかくトーマスの熱が背中にあるのに、これは落ち着かない。トーマスのお眼鏡にかなっているだろうか、という気持ちになってしまう。
塗ったのはトーマスだけれど、それも私というベースに問題があったら台無しになってしまうだろうから。彼にベースをカバーするスキルがあるとは思えない、とかそういう話でもなく。
たぶん、私の精神的なアレのせい……、いや、こうだから精神的に不健康になってしまったのだろうか。脳内で卵と鶏の問答を始める。
………………。
「…………」
「……、……」
「………………」
……場に、深い沈黙。
饒舌なトーマスのことだ、そのうち何か話しだすと思ったのに。彼はずっと黙っている。私の両手を握ったまま、身動ぎひとつする気配すら無かった。
変化があったとするなら。
危うい雰囲気が、和らいでいる、だろうか。
自惚れでなければ、私に構うことで気が紛れた、のかもしれない。……そうだったら、良い、のだけれど。黙っているのはどういうことだろう。
私はあんまり会話が得意じゃないから、こういう時に何を話したら良いのか、そもそも沈黙を破っても良いのか、とんと見当がつかない。
でも、なんにもしなくたって良い。ただ一緒に居るだけでも良い。
そう考えても大丈夫なのかも、トーマスは私なんかが存在することそれ自体にすら価値を見出してくれるのかも、なんて思えるから、トーマスと2人で居るときは楽だ。ずっと昔にもらった言葉が、心の奥に根付いている。
私なんかに付き合わせるんだから、何かお返ししなくちゃ、とは思えど、絶対に返さないといけない、という強迫観念のようなものは感じない。
私にとっては、トーマスはそう思える唯一の人だ。だから、貴重で、大事で、大切で、……でも、こうなる前から、ずっと大好き。
気付くと身体からは力が抜けていて、後ろのトーマスに寄りかかるみたいに擦り寄っていた。あ、これは、はずかしい、かも。甘えているような仕草になってしまっているというか、いや、無意識のうちにやっていたのだから、そういうことなのだろうけれど。だからこそ居た堪れない。
トーマスには手を握られたままだから、動揺して脈が速くなっているのも伝わっているだろうし。だけど、この手を振り払えやしないし、一度寄りかかってしまうと、なんだか甘くて美味しくて、動けないし。
声に出さずにおろおろしてしまう。というところで、後ろから笑い声が聞こえた。ふは、と吹き出したあと、くつくつ、と喉を鳴らしている。
ぜ、ぜったい笑われるとは思ってた、トーマスって意地悪だから、私がこんな慌て方をしていたら面白がるとは思ってた。
──だなんて言えるわけもなく、ただ、笑われていることにもっと気恥ずかしさを覚えるばかり。
トーマスは一頻り笑ったあと、
「うあっ!?」
「間抜けな声だな。舌噛んだんじゃねーか?」
「え、や、だ、だいじょぶ、だけど……、……?」
私を抱えたまま後ろに倒れた。そして、するりと私の下から抜け出して、私の上に乗る。
トーマスが私を見下ろす。さっきちゃんと見たいと思っていたトーマスの顔が、ちゃんと見える。……やっぱり、心なしか、少しほどけている。
安心していると、その顔が近付けられた。キスされる、と思った時には、もうされていた。唇が触れ合うのと一緒に、胸元に手を添えられる。
あ、「する」んだ。
そう理解しても、拒む理由なんかどこにも無い。私はトーマスの手の平を受け入れた。
────その日のそれは、いつもより、たくさん触れ合うようなやりかただった。