「前」の私は死んだ。
──とは、言えない。しっくり来る言い方を探すならば、置き土産は解決した、今しばらくの間は眠ってくれている、などの表現が良いだろうか。
記憶と共に引き継がれたトラウマと罪悪感は、時折私を苦しませていた。その罪悪感に関して、解消ではなく、許容というかたちでの幕引きを図ってくれた直江には、頭が上がらない。おかげで『前』の私がトラウマと幾らか和解できていたことも思い出せた。
──まあ、そんな前置きは良い。
私がここで述べたいのは、「直江の愛を受け取る際の障害が無くなった」ということだ。
そして、そのせいで大変困っているという現状について。
「名前」
「ま、まて、ちょっ、まて!」
「聞こえぬな」
「聞こえてんだろが!」
こういうやりとりを、さっきからずっと、繰り返している。私を膝の上に乗せた直江が、何度も唇をこちらの顔に押し当ててくるのだ。もう口付けられていない部分を探すのが難しいレベルである。定義がよく分からないけれど、キス魔、という称号を得るにあたって、唇同士のそれ以外もカウントして良いのなら、直江は間違いなくキス魔である。
「ね、ねえ、ほんとにさあっ」
「ん」
「うわ、ちょあ」
顔を両手で隠しても意味が無かった。今度は手にちゅっちゅしてくる。しかも、こそばゆくて隙ができるから、そこに付け込まれて手を退けられる。振り出しに逆戻りだ。
ぶっちゃけキャパシティーオーバーである。
あれからずっと、直江は私の深いところに直接触れる能力──私のいちばん面倒くさい部分を理解してなお私に触れるということは、私のそういう部分へもの愛と許容、それから愛に他ならないから──を、手に入れてしまったのだ。しかも常時発動のスキルとして。そんな状態で触れられてみろ、もう、なんていうか、なんだろう、いちばんきもちいいところをずっと愛撫されているようなものである。皮膚の薄い部分や血管の太い部分といった、致命的な弱点となる場所は、得てして性感帯に変わる。それと同じだ。
精神的な快楽というのは恐ろしいもので、肉体的な快楽ほど激しくもないくせに、脳をびりびり痺れさせては、蕩け落ちそうなぐらいにする。反面、激しくないからこそ、理性が飛ばせない。
理性が有るなかでの、頂へ連れて行かれないままでの、絶え間無い快楽。天国なのか地獄なのか、もう誰か教えてほしい。
いっそ殺してくれ、と言いたいけれど、流石に脳がぶっ飛ぶのは怖い。なので、必然的に、ちょっとお手柔らかにしてくれ、という訴え一択になる。しかしそれを聞いてくれる直江でもなく、直江の愛を受け入れぬようシャットアウトできる私でもなかった。
尻の下にある脚とか、身体を支えてくれる腕とか、引き寄せられた先でぶつかる胸板とか、髪を撫で続けている手とか、顔中に触れる唇とか、私が顔を上げればきっとかち合うのであろう優しい目とか。全部、感覚の外へ放棄できない。だってあったかい。だってきもちいい。胸の奥がどろどろに溶けていく。
結局、逃げ場の無いまま、それどころか率先して、快楽を拾いに行っている。直江の体温を追いかけている。
直江の柔らかい唇が頬をくすぐる。髪に差し込まれた指先が頭皮に触れて、梳くように降りていく。息を止めてしまっていることに気付いては、意識して空気を取り込む。すると肩の力がわずかに抜けて、感覚が鋭敏になる。ぺろりと舐められた唇のぞわぞわがはっきり脳に伝達される。喃語みたいな呻きが漏れた。顔が熱い。胸のあたりにある器がいっぱいいっぱいで、破裂しそうだ。
直江の硬い歯が耳を掠める。私の髪を撫でていた手が頬から首筋にかけてを滑っていく。顎を指でくすぐる仕草は、ちいさくよわい生き物を愛玩するのに似ていた。そんな風に見なされていると思うと、なんだか涙が出そうになる。恥辱と屈辱と、それ以外の何か。また、ふかいところに触れられているかんじがする。……くるしい。
どろどろなのにトびきれないのが好い加減いやになって、首を横に振った。思ったよりも小さな動きになったけれど、直江は私の耳を食んでいた唇を離す。身体に力を入れるのも億劫になった私を抱き寄せ、もたれかからせてくれるおまけつき。なんだかんだ、私が本気で無理だと思うことはしないのだ。踏み越えられたくないラインの見極めが上手い。……逆に言えば、ギリギリのところまで攻め込んでくる性格の良さを持ち合わせている、となるわけだけれど。
直江の身体に全体重をかけると、胸がべったりくっつく。私の心臓が立てるうるさい音は、彼に伝わっているだろう。それをなんとかする余裕は無い。彼の手が頭を撫でるのをやめて、軽く手を置くだけとなったのを良いことに、緩やかなものへ変わった快さを味わっていた。その手で愛されまくりすぎることなく、体温を感じるだけとなると、気持ち良いというより心地良いくらいだ。色々心配せずに浸っていられる。
……少し前の自分に聞きたい。
「愛される」って、こんなに気持ちの良いものだったっけ。
いや、気持ちの良いものだった。それは覚えている。けれど、こんなにも、こうだっただろうか。
世の中の、何の気兼ねもなくいちゃいちゃできるカップルは、これほど気持ち良いことをしているということだろうか。だとしたら尊敬する。よく気が狂わないな、と感心する。
それとも、やはり、直江だからだろうか。人よりも何倍も、「愛」を大事にする彼だからだろうか。人を大事にしたいという気持ちを大事にしたい彼だからこそ、愛を伝えるのが上手くて、私を朦朧とさせてしまうのだろうか。
直江大好き人間としては後者が良いな。前者なら前者で、世の中の人々が幸せならそれで良いと思うけれども、直江大好き人間としては後者が良い。
なんか恥ずかしいことを思っているような気がしないでもない。あくまで気がするだけだ。頭がふわふわなので、その辺りの判断も覚束ない。あとで思考がはっきりしたら、自分は何を……と転げ回ってしまうやつな気はする。気はする。
「……なおえ」
「私を好きかと聞きたいのだろう。
好きだぞ、大好きだ。愛している」
「…………んん……」
声をかけてみたら、勝手に代弁されたうえに、しっかり答えが返ってきてしまった。呻きながら、直江の首筋に額を擦り付ける。はずかしい。
でも、これではっきりした。私の予想通り、直江が直江だから、こんなにも私を気持ち良くできてしまうのだ。直江じゃなかったら、私の考えを見透かして、そのままはっきり答えられないだろう。(政宗だったらエスパーにはなれるけれど、政宗は別に私のことをそういう意味で好きなわけではないし。だからこそ、私も彼を兄貴分として慕っているのだ。)
なんだか、この結論も頭がふわふわしているかもしれない。だけど、いくら頭がばかになりかけていたって、考えることはやめられないのが私だ。うーん。
むにゃむにゃとなんとか頭を動かそうとしてみる。すると、直江の指先が私の頬をこそこそ撫でた。大事なものに触るときの柔らかさだった。
「私はお前を愛していて、お前も私を愛している。
これ以上ないくらい、幸せなことだな」
うん。
身勝手ささえ感じるはずの言葉を、気付けば首肯していた。見上げた先で、直江が目を細めて笑っている。さっき想像したのと同じ、いいや、それよりももっと優しい視線と、私の目がかち合った。固まろうとしていた胸の奥と脳髄が、またどろどろと溶け始める。
どうも、そういうことらしい。
title by 金星 180508