03

 私が村の茶屋で働き出し、直江殿が足繁く通ってくるようになって、どれくらいの月日が経っただろう。
 ここまで長い間同じ場所に滞在するのは初めてだ。いや、政宗のところには長い間世話になったから、それ以外ではということになる。
 主人には恩を返したいと思っていたが、あとどの程度働けば良いのだろうか。住み込みで食事もいただいている以上贅沢な話だが、……私はそろそろ、この地を離れなければいけない。
 けれど恩返しが出来たかどうかなんて、させてもらっている側の私が判断することでもない。早いこと主人が「もう良いよ」と言ってくれるのを願うのみだ。

「やあご主人! 名前!」
「いらっしゃいませ。さ、名前ちゃん。休みなさい」
「……はい。ありがとうございます、店長」

 直江殿は今日も茶屋を訪れた。私は相変わらずその応対に駆り出される。
 私と直江殿のやりとりは、悲しい哉、茶屋の名物のようなものになってしまっていた。「今日もかい!」と声をあげたのは何度か顔を見たことのある村人で、曖昧に笑い返す。……笑えていれば良いが。
 その光景のなにが面白いのか、直江殿はこちらを見てにこにこしている。腹が立ってこっそり睨むと、彼は朗らかに言ってのけた。

「名前も随分この村に馴染んだな!」
「……、そう見えますか。それはそれは」

 また都合の良い。
 馴染んでいるものか。先程の村人だって、見覚えはあっても名は覚えていない。主人の名前さえたまに忘れることがある。
 私の土地への思い入れなんて、そんなものだ。
 私のぞんざいな返答に気を悪くしたのか、隣の直江殿はむっと唇を尖らせて私を見る。この程度、別に武器を抜かれるわけもなし、私は知らん顔を貫いてみせた。

「そうか」

 不服そうな直江殿が何を言うのかといえば、その一言のみ。何を意味しているのかは私には分からない。
 ……むしろ想像する必要も義理もない。
 直江殿はそのあと何を考え始めたのか無言になった。
 いつも煩いこいつが静かになると違和感が……無い。そんなものは無い。何が、いつも、だ。こいつが笑っていないだけで、どうして気にする必要がある。
 直江殿と話しているとおかしくなる。頭の中で、これ以上はいけない、と声が聞こえた。

「私もまだまだだな」

 外の静寂と内の警鐘の中。
 悔しげな声が、やけに耳につく。

「じゃあ鍛錬でもしに行ったらどうですか」
「うむ、必要だろうな。また御前に薫陶をいただかねば」

 直江殿は自らが尊敬している人物第二段の名前を出すと、決意を新たにした様子で先程の調子に戻った。……少しだけ、肩から力が抜ける。
 ただ、私の遠回しな「帰れ」は伝わらなかったらしい。まさか店員が客にそんなことを直球で言うわけにはいけないから、とそれなりに婉曲的にしたのが悪かったのか。

「さすがお忙しいですね。私なぞと話すよりするべきこともあるでしょうに、そちらは良いのですか?」

 これでどうだ。
 直江殿はぱちぱちと瞬きをしていて、やった、と思う。それを顔に出さないよう努めながら、彼が席を立とうとするのを待った。
 なのに、直江殿は。笑った。

「私なんぞと言うな! 友との語らいより大事なことがあるものか!」

 ──おい、家臣。仕事はどうした。
 明らかにそう言って返してやる場面なのに、呆気にとられるだけで終わってしまった。
 いや、こいつなんつった? 友? 友とか言った? それ誰のこと? え? 私?
 私が声も出ないでいるのに、直江殿は至極当然そうな顔をしている。

「……友なんて。一介の旅人にそのような、畏れ多い」
「何を今更畏るのだ。それを言ってしまえば、既にお前は失礼な態度を幾度もとってきたのではないか?」

 こいつに正論言われるのめちゃくちゃ腹立つ。
 引き続き私が声の出ない状態を続けていると、直江殿の笑い声が高らかに響く。どこか得意げな表情をしているのがむかむかしてくる。
 そういうの、やめろ。
 お前が「正しい」というのは、違う。
 思わず彼の思想を連想して、ぎりり、と拳を握った。
 直江殿の話を聞けば聞くほど思うのだ。こいつは自分の価値観に捉われすぎている。
 こいつの「義」は、愚かだ。自分の信じるものこそ世の正道であると信じ込み、その考えと対立するものは悪いものだと断じてしまう。むしろ、悪いものはすべて「不義」だと言ってしまうくらいだ。
 そんなもの、正しいわけがない。
 この混沌とした世、世の中には多数の考えがある。どれかひとつが正義などと断じられるわけがない。それが正道なわけがない。「世界の真理」は、そういう個人的なものではない。
 直江殿はそんなことにも気付かず、そして、と笑って言ってのける。

「弱きに寄り添うのが、上杉の義なのだ!」
「具合が悪いのでもう下がりますごめんなさい店長!!」

 ────ああ、やっぱりこいつは殴り飛ばすべきだ!!
 店内を抜け出して、駆け抜ける。途中で履物が脱げても構わずに。木々の間を縫って。稲穂の垂れ下がる田の畦道を、只管に。
 逃走。
 私の得意なものだった。
 具合が悪いとか言ったくせに、部屋に戻らず外へ走り出すなんて、とんだ馬鹿だ。でもこれは私に染み付いた行為で。
 走って走って逃げ抜いて、気付けば村のはずれまで来ていた。そこはちょうど暗がりだからか、人っこひとり居ない。
 私ひとりだ。
 なんだか、急に、足から力が抜ける。ずとん、と地に尻をついた。おかしいな。おかしいな。私、ほんとうに具合が悪かったんだろうか。
 病なんていつ以来だったろう。子供のころになったくらいだっけ? あの時は確か父さんや母さんや家臣が居て、

「やめろ。やめろ、やめろ。やめろ」

 自分の顔を、握る。頭蓋を潰すように。
 頭が痛い。握り潰しているから痛いのか、頭の中が痛いのか。
 心細い。痛い。怖い。寂しい。寒い。違う。私は何も。
 ああくそ、ぜんぶぜんぶ、ぜんぶ、直江殿の、……ちがう、誰も悪くないんだ。それが今の世だ。
 やり場のない感情が混ぜこぜになって、ぐるぐる回って、気持ち悪い。
 握った額からみしりと音がする。

「名前!!」
「────、」

 名を呼ばれた。聞き慣れた声がした。
 ……幻聴か? 私はとうとう頭までおかしくなったのか?
 そう思うのに、騒がしい声がもう一度、私の名を呼ぶ。
 駆け寄ってくる足音。顔を上げて、それを現実だと確かめる気力もない。
 声だけが、頭のななめうえから落ちてくる。

「名前、もしや本気で具合が悪いのか?」

 心配そうな色。直江殿の声。

「しかしあの全速力は病人のものとは思えなかったがな。私は取り立てて俊足なわけではないから、見失ったあと探すのが大変だったぞ」

 探したのか。馬鹿じゃないのか、お前。私なんか探してなんになるって言うんだ。
 ほんとうに、ほんとうに、なんで来たんだ。私はお前に何をした。何もしていないだろう。苦言しか与えていないだろう。お前にとって、私なんて取るに足らないだろう。
 なのに、なんで。お前は私を見つけに来るんだ。

「ともかく、帰るぞ。病なら横にならねば」

 ぽん、と背中に軽い衝撃がある。直江殿の手だった。その温度から、「帰る」から、彼の意図を察する。
 直江殿は、私をどこかに連れて行こうとしていた。
 それはいけない。こいつが連れて行こうとしているのは、きっと、毒の沼地だ。踏み入れば足から沈み、毒を頭まで駆け上らせ、私をべちゃべちゃに壊していく。

「このような寂しい場所に蹲っているだけでは、よくなるものもならないぞ」
「──、」

 ──うるさい!! うるさい!! うるさいうるさいうるさい!!
 声が、出ない!
 私がものを言わない間に直江殿は勝手極まりなく私の身体を持ち上げてどこかに連れて行く、私が逃げてきた道を逆に行く、私の足を封じてどこかに置きに行く。
 ちくしょう、ちくしょう、抵抗する力さえあればこんなこと。
 がたがたがたがた手が震えて、それを直江殿が握って、器用に抑え込む。やめろ。離せ。言いたいのに言えなくて、息の詰まったまま彼の所業に被害を受けている。
 いやだ、もう。こんなの。あんなの。
 明日。明日だ。この村を出てやる。出よう。
 私はもう、ここに居てはならない。
 こいつとこれ以上、関わってはならない。
 黒頭巾組に頼んだ政宗への手紙とか、そろそろ返事が来る頃合いだ。それを受け取りに行くついでに、この村を出てしまおう。
 そうだ、それが良い。
 そうしなければならない。

末路から始まるお話

title by afaik 170421