04
舌足らずな声が、「お兄ちゃん」と己を呼んだ。
初めての呼称に、そうか、自分は「お兄ちゃん」なのか、と思った。
「お兄ちゃん」と口にした相手──名前は、硝子越しに、己をじっと見ている。母親の胎内から引っ張り出された呪胎九相図と違い、「産み落とされた」名前の体躯は、自分たちよりも大きい。
ゆえに、瓶を抱き締めている名前は、まるでこちらに覆いかぶさってくるようだった。
だのに。
自分よりずっと小さく見えるのは、もっと大きな身体で包み込んでやりたいと思うのは、一体、どうして。
その姿に気付いた瞬間、脹相は飛び出していた。周囲に人影がないことを、頭の隅できっちりと確認してもいた。
目撃者は消せば良いだけだが、まず目撃されたくもなかったのだ。
「────」
こちらを呆然と見つめて、間違いなく「お兄ちゃん」と口を動かした相手との再会は、穢れの無いものであらねばならなかったから。
「……名前。名前だな。俺には分かる」
「…………」
「……名前?」
立ち尽くす名前に、脹相が一歩近付く。
己を見上げる瞳の揺れるのを、脹相は見た。
──ああ、そうだ。
名前はずっと、こういう目をしていた。
「名前」
「……っ、……ぉ、っ」
「ああ。
オマエのお兄ちゃんだぞ」
動かぬ身体を胸に引き寄せる。いつかの逆、己が名前を抱き締める。大きな自分が、小さなきょうだいを。
腕の中で、名前が肩を震わせた。
「……ど、して。ぁ、え、にい、さ、が、……ひとり、て、い、て」
「……、……壊相か血塗に、会ったのか」
「ぁ、……う、ん、えと、えっ、と……」
混乱している。
もう少し強く抱き締めても良いものだろうか。初めての行為は手探りだ。受肉に使った身体から引き出せた知識はあれど、経験は伴っていない。宥め方を知っていても、行動に移したことは無い。それでも記憶を漁った。
こうすれば良いのか、と名前の髪を撫でる。ひゅ、呼吸の音がした。
呼吸の。
「──よく、生きていてくれた」
名前の顔が、脹相の胸元に埋められた。
数分後。人間の気配に、ふたりは橋の下へ降りていた。落ち着きつつあった名前は、しかし脹相が離そうとせず、あぐらの上に乗せた。名前も驚きはすれど、抵抗せずに脹相へもたれかかっている。
「……昨日、兄さんと兄者を見つけたときの話、するね」
名前の言葉に、脹相はあの「死」の感覚を思い出す。
自己と同一視したものが喪われる冷たさを。
「まず、ふたりは生きてる」
だから、脹相は息を呑んだ。
名前が目を伏せる。昨日切りつけた腕の赤黒い線を、指でなぞった。
「私は、あのとき死んだでしょう」
淡々とした声。事実を述べているだけと言わんばかりのそれが、脹相の胸を揺らす。
──そうだ。名前は、かつて。
自分たち兄弟の、前で。
決して忘れ得ぬ記憶が、脳裏を過ぎる──頭を掻き回されるような痛みを伴って。
「だが、ここに居る。オマエは生きている。
……そういう術式か?」
「……術式、なのかな。
自己で完結しすぎてるし、使う機会も限られてるから、あんまりよく解ってない。
他者に使ったのも、昨日が初めて」
脹相が問えば、名前は迷いがちに答える。
指先が、傷口を往復した。
「反転術式じゃない、……使えるけど。
私は、死ぬと──生き返る、は少し違う。
再構成、……ううん、やっぱり違う。
死んでも死なない、いや、死んでも『私』が在る。こう言うのが、近いかも」
「……壊相と血塗に使った、というのは?」
「うん、……私のこれも、血が、媒体だから。兄弟なら、もしかしたら、って。
だから、……うん、『生きてる』、けど……」
「名前?」
言いながら俯き、口籠る。名前を呼ばれると、更に下を向く。先程からの、言語化が困難だという風とは違って見える。
脹相は名前の頭を撫でた。
「話しにくいなら、無理強いはしない」
「……え、あ、……あり、がと……」
「俺はお兄ちゃんだからな、兄弟をいたずらに苦しめるのは言語道断だ」
「……ふふ」
笑った。思わず顔を覗き込む。脹相の勢いの良さに、笑みの浮かんだ口元のまま、名前はぱちくりと目をまたたかせた。次いで、へにょりと眉を下げ、また違う笑顔を浮かべる。
──見るのは初めてだが、笑っている方がずっと良い。
その目の方が、ずっと、そういう目をしていてほしくなる。
抱えた身体を、また抱き締める。名前の体躯は、脹相の腕の中にすっぽりと包み込めた。