神隠し03

 抱き締めた腕の中、名前はぱちりとひとつふたつ、瞬きをした。
 僕はたった今、晴れて恋人となった彼女に全てを暴露したところだ。僕よりずっと小柄な体躯に回した腕を見て、執着っぷりと意気地なさに我ながら呆れる。結局僕は名前がどんな反応をしたって、逃がしてあげられないのだ。
 名前は暫く沈黙している。それはそうだ、僕が言ったのは彼女にとって相当衝撃的な話なのだから。噛み砕くまで時間がかかるのだろう。
 ……名前の信頼と信用を裏切るような真似をしておいてなおそれに縋り、受け入れてほしいと思っているのだから、僕はどこまでいっても格好悪くて自分本位だ。
 名前の言葉を待ちながら、彼女の髪を指で梳く。一房掬い上げては、さらさらと指の間を落ちていく名残惜しさに次を拾う。指通りの良い髪の毛先さえ、僕の神気が満ち満ちていた。今すぐにでも名前を隠すことが出来るぐらいに。
 彼女にどんなことを言われたって、僕がどうするかは決まっている。
 ただ、僅かでも許しが欲しかった。
 君を隠して良いのだと、これからずっと僕だけの女の子になってくれるのだと、その口で言って欲しかった。
 やがて彼女が顔を上げる。
 口にしたのは、

「光忠、私をずっと幸せにしてくれるんだ」

 ──ふむ、魂まで安心の光忠保険ってとこか、破格の対応だ、と確かめるように零されたその意味を理解するため、幾許の時間を要した。
 そして思いもかけない言葉だと気付く。彼女は至極真面目な顔をしていた。
 僕を見上げる彼女の瞳に、目を見開いて口を開けた間抜け面が映っている。誰でもない、僕のものだ。いつもだったら格好悪い顔を見せることへの羞恥を感じ、反して彼女の視線が僕だけをとらえていることに胸の内を沸き立せるはずだけど、今はそれどころじゃない。
 いや、君、真面目な顔で何を言ってるの?
 本当に僕の話聞いてた?

「ねえ、名前。えっと、まず睡眠薬とかお香のくだりとかわかったかな」
「聞いてた。ちょっと味が気になるんだけど珍しく料理失敗したのかな、って思った理由が睡眠薬とは予想だにしなかった」
「うん、僕もそれを聞かれて慌ててお香に切り替えた。鎮痛も必要だったし。でもそうじゃなくてね」
「……偏食家の舌は敏感でごめんね?」
「そうじゃなくて」

 名前のあまりの反応に、聞きにくかったけれど眠っている君に手を出したことについて問うべきかと考えたところで、彼女が噴き出した。隠そうとしたのかすぐ僕の胸元に頭を押し付けたけれど、丸まった背の震えや溢れる笑い声で丸分かりだ。
 え、わざとこんなことを言ったのかい? 僕をからかってる?
 嫌いな相手をからかえるほど器用な子じゃないから、僕に悪意を持って弄んでいたわけではないだろう。でも、まさか名前が僕をからかうなんて。嫌なわけじゃない、僕への遠慮が無くなってきたみたいで嬉しいんだけれど、内容が内容だから少しどころじゃなく戸惑うしかない。

「ご、ごめん、調子に乗った」

 笑いが込み上げるのか途切れ途切れの声で謝られる。楽しそうで良かったとでも言えば良いのかな。
 名前は深呼吸して笑いを落ち着かせると、僕の目を見つめた。普段常に目を見て話すわけじゃないのに、大事な時だけは必ずそっと見据えてくるのが可愛い。そういう名前への愛しさは、混乱した頭でも変わらない。胸の奥がきゅうっとした。

「あー、えっと、さすがに私も、寝てる間に、みたいなのは、うん、倫理的に、悪いこと、なのは分かるよ」
「その割に平然としてるよね」
「だって、酷いことされてないから」

 行為のくだりが恥ずかしいのか、名前は頬を染めて言いにくそうに言葉を零す。
 酷いことされてないから、って。君、そんな。こんなの、十分酷いことに入るだろうに。寝ている間に好き勝手されていたなんて、怖くないのかい。
 名前なら受け入れてくれるだろうなんて確信めいた希望を抱くほど余裕ぶっていたのに、今の僕は焦りっぱなしだ。名前が心配で仕方ない。まるで出会った頃みたいだ、彼女の思考回路に戸惑い切って。
 鈍い彼女は僕の心配など露ほども知らない。

「他の刀剣男士が私を狙ってたとは思わないけど、もしそうだとして。光忠が、その、私のこと、す、……き、で、してたことが、彼らを退けてたことになったわけだから結果オーライだし。
 お腹痛いのはちょっと困ったけど、騒ぐほど痛かったわけじゃなかったしなあ……。光忠が苦しくなくなる手伝いが出来てたなら私も嬉しいし……」

 だから気にすることないよ、うんうん、と頷く名前。
 いや、気にすることだろう。確かにそれは僕が予想していた返答なんだけど、こんなに心配になるとは思わなかった。もし彼女が思い直して僕へ危機感を持ってしまえば最悪の展開で、受け入れられている現状が最善の展開であるはずなのに、どうにも心がついていかない。

「名前、前向きすぎじゃないかい?」

 こう言うのもなんだけど、名前にしては、珍しく。
 名前は、とうとう目を逸らした。ちょっとほっとして、同時にちくりと胸が痛む。心配するか、閉じ込めるか、どっちか片方に決めれば良いのに、僕。
 だけど僕の見る先で、名前はうろうろ視線を彷徨わせたかと思えば、顔を真っ赤にさせた。あろうことか、また目を合わせてくる。

「……光忠と一緒に居られるのに後ろ向きになれるわけがないじゃん」

 ──僕の名前が可愛い。
 って、そうじゃなくて。
 僕、今日だけで「そうじゃなくて」を何度言ったんだろう。
 あのね、と切り出せば、名前は首を傾げて僕の言葉を待つ。

「僕に神隠しされるってことは、皆に会えなくなるってことなんだよ。君、それでいいのかい。
 寂しくは、ないのかな」

 名前の目が、揺らいだ。
 つい湧き上がる嫉妬を押し込んで、心配の色をした漆喰で塗り固める。ああ、もう、聞かずとも彼女は皆に未練があると分かっていたから、こんなこと聞く予定はなかったのに。
 緩く伏せられていく名前の瞳。今度こそ、名前は僕を突き放すかもしれないと思う。
 でも、それでも、やっぱり。
 彼女は、ゆったりと僕を見てくれた。眉は八の字に下げられて、目尻と口角が笑みを宿している。
 
「月並みだけど、別れなんて唐突なものだって、そう思うから」

 ……その言葉ひとつで、名前は別れを受容した。
 僕は、幻覚か、幻聴か、それど都合の良い夢を見ているだけか、目の前にある現実を疑い始めている。
 だって、名前、無理をしている素振りが無い。
 僕は名前をずっと見ていたんだ、見つめていたんだ。悲哀だとか寂寥だとか、彼女がそういう存在感の大きい感情を自己暗示で我慢していたなら、絶対に見抜ける自信がある。例えば彼女が審神者になった時がそうだ、家族との別れの寂しさを自己暗示で覆い隠して、じっと堪えていた。
 だというのに、今の彼女にはそれがない。
 あるがままを受け入れるかのように、それでいいんだと、笑っている。

「……名前、ねえ、君は」

 どうして。どうして、この子は。
 浅ましくて、醜くて、いかれている、格好悪い僕を、こんなにも受け入れられるんだろう。
 それを音にすれば、名前は目を瞬かせた。次いで、苦く笑う。

「光忠がそれを言うの?」

 彼女の言わんとするところは分かる。
 でも、どうしようもない所も含めて彼女を好きになった僕と、僕が好きだから格好悪い所も含めて全部好きなんだっていう名前とじゃ、はじめとおわりが逆なんだ。だから、すんなりと納得は出来ない。
 名前もどう言ったら良いのか悩んでいるらしく、眉間に皺を寄せていた。
 彼女はやがて、じゃあ、と言って、一度止める。
 名前は自分の右腕を広げたあと、その付け根のあたりを左手の指でぴっとなぞった。何の意味があるのかと思えば、名前はあっけらかんと言う。

「試しに腕の1本くらい持って行く? 笑ってる自信あるよ」
「やらないからね?」

 そんな物騒な試し方があるものか。どれだけ心配をさせたら気が済むんだろう。強気になっているのでもなんでもなく、いや調子には乗っているようだけど、ただ確信していることをそのまま言っているだけなのだからたちが悪い。もっとしようがないのは、これが彼女の素であり本質であることだ。いかれた神々に影響された結果こんなことを平然と言えるようになったわけじゃなく、出会った時からこうだった。この危うさが、欠陥が、恋情に戸惑う僕の背を押してきた。
 そう? と首を傾げる名前に、まったく君は相変わらずなんだから、本当に目が離せない、やっぱり僕がちゃんと見ていないと、と思って、でも。
 僕のためなら腕だって差し出せるという名前を愛おしくも感じてしまうのだから、実行する気はないにせよ、僕は馬鹿だ。しかもそれを責任転嫁なんかして、

「名前は、ばかな子だなあ」

 零した言葉に、名前はへしゃりと笑う。
 ばかな自分を受け入れてくれてありがとう、と、心底嬉しそうに笑う。
 ──僕もきっと、同じ顔をした。
 右手の手袋を引き抜いて、大人しく腕の中に収まったままだった名前の左手に触れる。小さい。
 彼女のきょとんとした顔の無防備さが可愛くてじいっと見つめれば、首まで赤いんじゃないかっていうくらいに顔に熱を集めて僕を見上げ返してくれた。
 掬うように彼女の左手を持ち上げて、小指の根元を親指でなぞる。丁度、さっき彼女が自分の肩口へそうしたように。ゆびきりげんまん、と幼い唄が脳裏をよぎった。
 彼女の小指を切る気は無い。僕が誓うべきなのは、その薬指。今度こそそっちを指でなぞった。こちらの指にも充てられた言葉があるのを知っている。現代の結婚式で、異国の神に誓う口上だ。
 死が二人を分かつまで。
 ──なんて、生温い。

「名前」

 呼べば、混乱と緊張に潤む瞳がしっかりと僕を映す。彼女を捕らえるのは僕なのに、僕こそがその瞳に閉じ込められて、溺れてしまうのではないかと思った。
 心の臓を細い糸でぐるぐる巻きにされたみたいな苦痛に、一度だけ、深呼吸する。

「君に、僕だけの名前になって欲しい。ずっと僕の傍に居て欲しい。君の全部が欲しい。魂ごと欲しい。ひとかけらだって余すことなく欲しい。僕の全部を貰って欲しい。君を世界の全てから奪い去りたい。
 愛している。
 死んでも離さない。
 ──僕とずっと、一緒に居てくれ」

 それは、泥にまみれた口上。純白のベールをステンドグラス越しの陽光が映し出す、清らかで眩しい、神に誓う愛の言葉ではなく。ただ、僕に塗り潰されてくれと、僕に誓ってくれという、汚れた欲だけを敷き詰めた。
 名前は小さく息を飲む。ゆっくりと開く唇は、震えていた。

「私も、光忠と、ずっと一緒に居たい」

 笑みに細められた彼女の瞳から涙が落ちる。頬を滑って、顎へ伝う。濡れた道を逆からなぞるように親指を這わせて、そのまま手のひらで頬を包んだ。
 彼女の涙だって、僕の浅ましさと同じ、全てを見捨ててでもたったひとつだけを選びたい、という欲から零れ落ちたものだろうに。汚れているのに。捻じ曲がっているのに。どうして、好ましく見えるんだろう。……その答えなど、とうに出ている。ただ綺麗なだけの彼女だったら、僕は恋など知らなかった。
 指の腹で目尻をくすぐって、鼻同士を擦り合わせる。ぱちくりと目を瞬かせた名前も、だんだんと現状を理解したらしい。水気を帯びる瞳が揺れた。
 彼女はきゅうっと目を閉じる。横に引き結ばれている強張った唇が可愛くて、すぐさま食らってしまいたくなった。それを抑え込んで、優しく触れようと言い聞かせ、つい笑う。──初めてを楽しみにしていたのは、僕だってそうだ。
 喉がからからに乾いていることに気付いて、唾液を嚥下する。格好良く決められるように自分を叱咤して、そして。

「────わたし、」

 僕の口付けを受け入れてくれた彼女は、ひとつ、呟いた。
 そして、僕は間違っていなかったのだと確信する。世界にとっては間違っていても、少なくとも僕と名前にとっては決して不正解になどならない選択をしていた、と。
 どうしてって、そんなの、だって名前が、

「わたし、しあわせ」

そう言って無邪気に笑った

title by イトシイヒトヘ 160116