7.5

 悩みがあった。
 それは名前の脳を支配して、決して離れることが無い。
 浮かぶのは、自分の近侍である男の姿。自らに向けられる悪意の篭らぬ目。髪を褒めてくれた声の色。思うまま泣かせてくれた日の柔らかなぬくもり。ありのままの名前を肯定する言葉。笑って頭を撫でてくれた手。それから──。
 考え出すとキリがない程に、名前は男に救われ続けていた。
 ──なのに、自分は何も、彼に返せていない。
 人気のない縁側で、名前は呟く。

「どうしよう」
「……何を暗い顔をしている」

 そこへ現れたのは、襤褸布で身を覆い隠している刀剣男士だった。
 それは君に言われたくないよ、山姥切国広。言いたくなった言葉は飲み込んで、名前は顔を上げた。
 いつの間にやって来たのだろう、座り込む彼女の目の前に立つ山姥切の金糸の髪は日中見るには眩しすぎて、彼女は目を細める。陰鬱な性格をしている割に、気にしてわざわざ声をかけてくれるのだから良い奴だなあ、と思った。
 試しに聞いてみたくなった名前は、

「山姥切国広はさ、燭台切に何したら喜ぶと思う? いつも世話になってるから何か礼をしたいんだけど」
「……あいつに?」

 山姥切はぱちくりと目を瞬かせる。そして少しばかり思案したが、想起した燭台切と名前のやり取りの中で、燭台切はいつも笑っていた。
 ──あんたの世話をしているときが一番嬉しそうだけどな。そうは思えど、これを言えば納得がいかないと騒がれるだろう。
 面倒臭くなって、何かの手伝いでもしてやればいいだろ、と返す。

「あー、成る程」

 素直に受け入れた名前は、何が良いかと考えだした。
 山姥切は横目にして去ろうとしたが、名前に布を掴まれ行動を阻まれる。彼女を見下ろせば、暇なら相談に付き合え、と目で訴えかけられて、溜め息をつくと同じく縁側に座った。
 隣の山姥切に、名前は満足そうに笑むと、燭台切を手伝う隙を求めて一日の行動を頭の中でなぞりだす。
 はたと思い当たって、彼女は顔を明るくした。
 続いて色々と思案にくれる。これを実行するには協力者が必要だ。
 協力者足りえる相手として心当たりがあるのは、まず粟田口。却下。短刀の場合、正確には年上であるとはいえ、外見も中身も殆ど幼子である彼らと接するのは苦手だ。頼れそうなのは薬研、鳴狐、鯰尾、骨喰、一期一振だが、彼らはここ最近遠征部隊に加わっているため忙しい。となると、残りは1人だという結論に至る。
 山姥切の布を引っ張った。

「山姥切国広、君にしか頼めないことがある」
「……俺にだけ? 写しの俺にだけだなんて、酔狂すぎやしないか」
「いやいや。君だけだよ、山姥切国広」

 やや芝居がかった口調で呼ばれた山姥切だったが、言葉ほど嫌そうな顔はしていない。写しであることにコンプレックスを持つ彼だからこそ、自分だけに出来る事があると言われるのは好ましくはあれど嫌ではなかった。もっとも、それを真っ直ぐ表に出さないのが彼である。
 かく言う名前は、本気で嫌がられなければ主命で押し切る心積もりをして、山姥切に言った。

「ネクタイの結び方を覚えるための手伝いをして欲しい」


 結局のところ、その頼みは受託された。名前は自室のパソコンでネクタイの結び方を調べプリントアウトして、縁側に戻ってくるとそれを傍らに置き、珍しく布を取った山姥切と向き合っていた。
 彼も最初は布を取ることを嫌がっていたが、形振り構わぬ名前が土下座しようとしたので諦めたのだった。
 さらに、この辺りは人通りが少ないはずで、だからこそ山姥切もここを気に入りよく訪れていた穴場だったのだが、彼の兄たる山伏が偶然通りがかった。そして、この場に居座ることになる。ネクタイを結べるようになるための修行だと名前が言えば、山伏も豪快に笑ってその場で瞑想をし始めたのだ。

「……何をしている」
「え? ネクタイを首に通そうと」
「……そうか」

 もう突っ込まないぞ。バカだが。口を閉ざす山姥切は、ネクタイを持ちながら己の周りを一周する名前のことは気に留めないことにした。周り終わって首に引っ掛けられたネクタイの両端を手にし、彼女は紙を覗き込む。
 いつの間にか瞑想をやめて微笑ましそうに弟たちを見守っていた山伏が問いかけた。

「主殿は、燭台切殿相手にも一周周るつもりなのであろうか」
「えっ」

 そちらを振り返って、名前は唖然とする。ネクタイ云々の話はしたが、燭台切のことは何一つ話していない。
 山伏は、主殿が自らそのような修行に励む理由と言えばそれしか考えられぬ、と。
 見透かされたようで、名前は身の置き所がなさそうに身体を縮こまらせつつ、先ほどの質問に答えようと口を開いた。

「でも、その。抱きつくみたいになるじゃん。燭台切に申し訳ないよ、そんなの」
「申し訳ない?」

 山姥切が首を傾げる。名前は至極当たり前といった顔で、私に抱きつかれて嬉しいものか、と言った。
 主殿も卑屈であるな! 朗らかに笑い飛ばす山伏、対して山姥切は、喜ぶ様子しか浮かばないが、知らぬは当人ばかりなんだな、と心中で呟く。卑屈だからこそ気づかないのだろうことを考え、無限に循環しているようで呆れ果てた。
 山姥切は山伏の方をちらりと見る。アイコンタクトを受けた山伏は静かに告げた。

「主殿が思っているより、燭台切殿は主を気に入っておられるぞ」
「……ああ、なんとなく、それは」

 彼に縋り付いて涙に濡れた夜のことを、名前は忘れない。思い出すだけでも泣きそうになる。あの時には確かに実感した、燭台切に受け入れられていることを。本当は彼女が思い知った以上に好かれていることまでは分からずに。
 山姥切と山伏の2人も彼女の無知を察していて、山伏はまた背中を押す。

「燭台切殿はいつも主殿に自ら触れているであろう? 自分からするのであれ相手からされるのであれ、触れ合うという行為であることに違いはあるまいよ。
 ──万が一に燭台切殿がそれを嫌がったとて、一度の失敗のみで主殿を嫌うようなお人ではなかろう。それが自分を想う心のために起こった失敗であるのなら、尚更な」
「あ、……うん。そう、だね」

 彼の言葉を聞き終えた名前は感嘆するばかりだった。
 嫌われることがおそろしいのだなんて、よく見抜くものだ。嫌われたくないくせに、嫌われることばかりしてしまう、都合の良い性格だと。
 同時に、燭台切がまるで抱き締めるかのように此方の身を引き寄せたことも思い出す。自分の知る彼の性格を含め、山伏の言葉と照らし合わせて、確かに大丈夫かもしれない、と希望が生まれてきた。
 そうして難しい顔をする名前の手を、山姥切が指先で軽く叩く。

「練習、するんじゃなかったのか」
「う、うん。する。ごめん、ぼーっとしてて。ありがとう、よろしく」

 ネクタイを握ったままなのを忘れていた名前は、大慌てで紙とにらめっこしだす。そのうち図案通りにネクタイを結び始めれば、多少混乱はしながらも段々と形になっていった。
 自分の手で結ばれていくネクタイを見ながら、名前は幸福のみに満ちた僅かな未来に想いを馳せる。
 ──燭台切、喜んでくれたらいいな。

わからないことばかりだったから

title by 月にユダ 150318