10

 広間には何人かが集まっていた。皆晩御飯のあとの食休み中で、思い思いに憩っている。今開放されている区域は全部攻略済みだし、多少ゆっくりしても許されるだろう。
 こういう時間は好きだ。私だけは、あと何分かでお風呂に入りに行かないといけない時間なのが惜しい。風呂はまず私が入ったあと、皆が続々と入るようになっている。共同使用の大浴場なのだ。
 時計を気にしつつ、壁に寄りかかって漫画を読み続ける。
 しばらくすると襖の開く音がして、そちらへ視線を遣った。石切丸だ。
 彼は広間を見回すと、飲んだくれている次郎の方へ歩いて行く。

「廊下に落ちていたのだけれど、これは次郎太刀のものかな?」
「いいや、アタシのじゃないよ」

 石切丸の手には、1本の櫛。折りたたみ式の黒いものだと分かって、顔が引きつる。それが、廊下に、落ちていたのか。
 パーカーのポケットに手を突っ込む。もしもの可能性に賭けたくて中を指で探り、血の気が引いた。

「なら、これを落とした者に心当たりはあるかな。誰かが踏んだら怪我をしてしまうし、物は大事にしないといけない。
 次はないように注意して貰わなければならないからね」

 石切丸が次郎に問う。これはまずい。
 だってそれは、大和守の提案を受けた時に私が買ったものだ。
 注文はこいつ名義にして、と彼は加州を指して言っていたし、実際にそうした。
 加州のものという名目で購入したのだから、表向きの持ち主は加州だ。このままでは加州が咎められてしまう可能性大だ。慌てて石切丸に駆け寄った。

「あの、それ、私の」
「主のかい?」

 言えばきょとんとされる。そこまで驚いた顔をするとなると、矢張り私には身嗜みに気を遣わないだらしない印象が定着しているのだろう。間違っていない、正解だ。
 気恥ずかしくて、物である彼らに申し訳無くて堪らない。それでも加州に迷惑は掛けられないのだ、背に腹は変えられない。
 拾ってくれてありがとう、と受け取ると、幾つかお小言を貰った。耳が痛いけれど、「彼」に見つけられる前に拾ってくれたのは有り難い。
 説教が終わり石切丸が立ち去ると、くい、パーカーの裾を引かれた。
 振り向いた先で、笑顔の次郎が此方を見上げている。

「アンタ、櫛使うようになったんだ」
「え、あ、ああ、まあ、うん」
「いいんじゃないかい? 髪ぐらいはちゃんとしないとー、って思うようになったんだろ」
「ええと、うーん、うーん、そんな感じかな」

 褒められているようだけれど、居心地が悪くて目を逸らした。
 実のところ、折角買ったのに未だ一度も使ったことがない。
 寝起きも、ゴロゴロしたり仕事をしたりして髪が乱れたときも、風呂上がりも、燭台切が梳かしてくれるのだ。なもんだから、自分でやる気もなかなか湧かない。
 次郎にも終いには、好きな男でも出来たのかい、なんて茶化されてしまって、思い切り首を振った。肩を落とす。
 その時軽やかな足音が近づいてきて、急いで櫛をポケットにしまった。
 襖が開く。

「主、お風呂の時間だよ」

 顔を覗かせた燭台切に、私の判断は間違っていなかったと胸を撫で下ろした。
 これを彼に知られてはいけない、となんとなく思う。ポケットの中の櫛を握り締めた。
 もう一方の手を軽く上げて、了解、と答える。燭台切は、うん、と微笑んだ。
 今日もきっと、風呂上がりに燭台切は私の部屋に来てくれる。それで、髪を梳かしてくれるのだろう。先程は焦ったけれど、それを考えればなんだか楽しくなった。

「あれ? 折角櫛を買ったのに、自分でやらないんだ」

 次郎! 叫びたくとも声など出ない。なんてことを暴露してくれたんだ、どうしてか燭台切にだけは知られたくなかったのに!
 思わず次郎を振り向いたところから、燭台切の方に向き直れなかった。どんな顔をすればいいか分からない。
 そうなのかい? と背後から声が聞こえた。
 どうしよう、答えられるわけがない。陽気な酒飲みは至極無慈悲だ。彼のような御神刀連中は人間の機微に疎いところがあるけれど、何もここで発揮しなくても良いだろうに。
 だのに次郎はきゃらきゃら笑って言った。

「そうそう。櫛なんて買っちゃったみたいでさあ。誰かに髪を褒められたと見たね」
「それは確かに嬉しかったけどさあ!」

 言ってからハッとする。私は今何を言った。
 嬉しかった? と次郎がにやにやする。燭台切も、きっと彼にとっては些細であっただろう自分の発言を覚えているのなら、何を指しているか勘付いているはずだ。
 単純な私が喜んでいたのはバレバレだっただろうけれど、後になって蒸し返されるのは非常に恥ずかしい。

「私風呂入ってくる!!」

 叫んで広間を逃げ出した。
 渡り廊下を駆ける。夜の空気が頬を冷ましてくれることを願った。
 もう、どうしよう。
 こんなのは恥ずかしすぎて、お風呂上がりに燭台切のことをまともに見られなくなりそうだ。──いや。立ち止まる。振り返った。
 広間はもうずっと向こうにある。
 心臓がどくりと嫌な音を立てた。
 私が櫛を持っているのを知った燭台切が、わざわざ自分の風呂の時間を遅らせてまで私のところに来て、髪を乾かし梳かしてくれるだなんて、してくれるだろうか。
 この後だけじゃない。
 朝や、他の時も、もうやってくれないかも知れない。そんなの、どうしようもないくらい寂しい。──変なの、おかしすぎる。いくら私がブラコンでも、兄さんに少し構ってもらえなくなるだけで、これほど取り乱すだなんて。
 頭をぐしゃぐしゃ掻き回した。
 深呼吸をして、落ち着こうと試みる。それでもどうにもならなくて、もう一度廊下を走り出した。
 心臓が痛いのは、走っているせいだろう。

拭っても拭っても、火はとまらないのです

title by トロールとスヌス 150407