05

「あ、う、お、おはよう、ござ、ます」

 家の中で、トロン様とすれ違った。
 それだけだった。
 トロン様は私なんか見えていないみたいに、私の隣を通り過ぎていった。がちがちに固まっていた身体から力が抜けて、足がもつれる。壁に肩を強くぶつけた。でも、壁に寄りかかるような体勢になれたから、そのまましゃがみこんだ。
 トーマスによく「今呼吸してねえだろ」と言われるのを思い出して、自分の呼吸を意識する。呼吸しているのかしていないのかわからないぐらい浅かった。
 息を大きく吸って、吐いて、深呼吸を始める。

「あ、……えっ? 名前っ、どうしたの、何かあった?」
「みは、える……」

 今度は、ミハエルの声がした。廊下の向こうから駆け寄ってくれた彼は、私の前で屈む。顔を覗きこまれて、視線を逸らした。目を見られないのが申し訳無い。でも、せめて、気遣ってくれたことには応えたい。呼吸が落ち着いてきたあたりで声を出した。

「……トロン様、と、すれ違って」
「……そっか」

 ミハエルが私の右手を取って、両手で包むようにする。「Ⅳ兄様が居たら良かったんだけど」と呟かれた。ミハエルでは役者不足だということみたいで、もっと申し訳なくなる。本当のことではあるから、倍の倍だ。
 ミハエルだって優しくしてくれるのに、どうしてトーマスの方が安心してしまうのだろう。私なんかが他者に順位をつけるなんて、烏滸がましいな。
 考えれば考えるほど落ち込んでしまう。でも、考えるのをやめられない。
 たとえば、トロン様が私の存在を認めないこと、とか。
 トロン様に何の考えがあるのかはわからない。だけど、トロン様はこの世界に帰ってきてからずっと、私を視界にも入れないし、声もかけない。トーマスが「名前を見ろ」といくら食ってかかっても、わざとらしく首を傾げるだけ。
 ──トロン様はきっと、私のことを、こう思っているのだ。
 「要らない」と。
 恐らく、私はトロン様の復讐の計画において、何のメリットにもならない。もしかすると、デメリットにすらならないのかもしれない。私は、そのくらい矮小な存在なのかもしれない。
 子供はともかく、大人は、外を歩いている時にわざわざ足元の蟻1匹なんて注視しない。……もうずっと外に出ていないから、昔の記憶になるけれど、そうであるはずだ。だから、それと同じだ。
 私なんて、居ても居なくても同じだって、トロン様は。
 露頭に迷うはずだった私を掬い上げて、我が子のように扱ってくれたバイロン様は。

「名前、名前っ」
「うぇ、あ、う」

 考えているうち、ミハエルの手を振り切り、頭を抱え込んでいた。身を守るみたいに丸まって、あうえうと喃語みたいな声が漏れていた。涙もぼろぼろ落ちている。それでも、本当は叫び出したいところを、すんでのところで抑え込められているぶん、マシだと思いたい。ミハエルが私の背をさする。

「大丈夫、大丈夫だよ。大丈夫。
 名前が居るから、僕もⅣ兄様も、きっとⅤ兄様も──」
「うっ、く、うあ、う、ぐぅ」
「──名前、大丈夫だよ。ね。呼吸を意識して、ゆっくり吸って、吐くんだ。
 大丈夫。僕たちは、家族のために。……家族のために、戦っているんだ。それには名前、君のことも含まれてる。君がもっと良い環境で暮らせるようにしたい。そう考えると、辛くても頑張ろうと思える。
 名前は僕たちの支えなんだ。Ⅳ兄様にとっては、特にそうだ」

 ひくつく喉、吐き気、息ができない。口元をおさえると、ミハエルが深呼吸をするように言う。私も、この苦しいのをどうにかしたい。でも、うまくいかない。うまくいかないなりに、なんとか、やる。なんとかやると、だんだんできるようになってくる。
 ……私は、呼吸するにも一苦労かけなくちゃいけないんだ。
 手の下で、どうしてか笑みが溢れた。この状況で笑うのはおかしいから、笑い声を耐える。たまに耐えきれなかったぶんは、しゃくりあげる喉と小刻みな呼吸に混じってどこかへ行ってしまった。
 ある程度平静に戻るまで、どのくらい時間をかけただろう。経験から考えれば、数十分といったところだ。付き合わせてしまったことをミハエルに謝ると、大丈夫だよ、と言われた。
 濡れた目元を服の袖で拭おうとすれば、ハンカチを差し出される。断りきれず、貸してもらった。洗濯物は同じだからと「洗って返すよ」も封じられ、取り上げられる。ミハエルは気遣い屋すぎる。頭が上がらない。
 彼は私の手をとって、一緒に立ち上がらせる。

「部屋まで、……あ、一緒に居た方が良い? 1人の方が良い?」
「え、え、えと……」
「1人の方かな? じゃあ、部屋まで送る。
 紅茶も淹れてくるから、それを飲みながらⅣ兄様の映像を観てると良いよ。きっと、帰ってくるまでの時間がすぐに感じるはずだ」
「う、うん……」

 トーマスが居ないなら、1人の方が良い。ミハエルにあんまり頼りすぎると、トーマスの雰囲気が恐くなるし。でも、1人が良いと言うと、一緒に居たくないと伝えるみたいで言いにくい。言葉を選びかねていれば、見抜かれて、気を遣わせてしまった。……ミハエルは、私より歳下のはずなのに。辛抱強くて、優しくて、すごい。
 並んで、廊下を歩く。最初はふらついたけれど、最初だけだった。
 その途中、ミハエルがこんな話題をふってきた。

「ねえ、名前。
 最近のⅣ兄様の、大会以外のデュエルの試合って観たことある?」

 私は首を横に振った。私の持っている録画データは、テレビで放送されているもの──デュエルの試合そのものとか、インタビューとか──だけだ。
 それ以外は観たことが無いなんて、言われてから気付いた。
 私の答えに、ミハエルの口元が強張る。どうしたんだろう。

「ないんだね。……変なこと聞いてごめんね。気になっただけなんだ」
「え、ううん、そんな、いいよ、いいの」

 謝られて、私は慌てた。ミハエルが私なんかに謝ることはないのに。
 だけど、そっか。私、トーマスのデュエルの全部を知らないんだ。誰かの全部を知りたいとか理解したいとか、そんなの不可能だし、私なんかが望むのはもっと馬鹿な話だ。……でも。

「……観てみたい、な……」
「…………、……」

 ぽろりと言うと、ミハエルが立ち止まった。

「……ミハエル?」
「……なんでもない。ただ、……Ⅳ兄様との間で何かあったら、僕に言うんだよ」
「え、う、うん……」

 私の呼びかけで再び歩き出したミハエルは、そう言った。その声の硬さに、戸惑ってしまう。一体、何がどうしたっていうんだろう。トーマスのデュエルに、何かあるのかな。
 不思議だったけれど、トーマスは私に何も言っていない。だったら、ミハエルから聞くべきじゃないだろう。トーマスのデュエルを見たい気持ちは、とりあえず、我慢。
 私はミハエルの言葉に頷くだけ頷いて、トーマスから何か言われるまで待とう、と思った。  

発火する凍原の声

title by エナメル 190329