「……なあ」
いつにも増して、弱々しい声が出た。ううん、私なんていつも弱っちくて、すぐにへこたれてしまうんだから、いつにも増して、じゃなくて、いつもみたいに、が正しいんだろうけれど。でも、いつにも増して、と思った。
私の隣に寄り添うようにしていた直江は、私のそんな声を聞いて、動き出す。どうした、と聞き返しながら、私の肩をそっと抱く。気遣いが前面に押し出された仕草に胸がぎゅうっとする。ときめきと後ろめたさとが合わさって、ぐるぐるしている。俯くと、後頭部に体温を感じた。私の頭に頬なんか添えて、くすぐったくないのかな。なんでこんなことしてくれるんだろうな。知っているけれど、どうしても不思議に思ってしまうな。やっぱり胸が苦しくなって、唇を引き結ぶ。それでも言葉を催促するように手を握られるから、ずっとはそうしていられなくて、ゆっくり続きを口に出す。
「今更、……今更なんだけど、……、……これを掘り返して、直江が傷付くかもとか、思うんだけど、ううん、傷付くかもっていうのも傲慢なのかもで、ほんと、わからないんだけど……」
届けようとしていた言葉はぐちゃぐちゃだ。何をしたってこれ以上は整理できなかったつっかえを、なんとか喉の奥から取り出している。自分で色々考えて、ちっともわからなかったのが、よく表れてしまった。直江はそれも気にせず、私が傷付くかもと言ったのもなんてことはないという風に、話を遮らないでいる。私の口は開いたり閉じたりして、喉が閉まったり唾を飲んだりして、空気だけしか出てこない。情けない。話そうと決心しても、次の決心までが長ったらしくて重苦しい。繋いだ手が、汗で滑る。自分のよりも大きな手を、弱く、握り直した。
「……あの、……直江はさ、私が……。あのとき、傍に居てくれたから救われた、みたいなこと言ってくれた、じゃん。
私、どうしても、それが納得できないというか、解せない、というか……、わからなくて……」
直江の気配が揺らぐ。抱かれた肩が、引き寄せられる。これはたぶん、抗議を意味している。私の話が終わるまで口を挟まないつもりではいてくれたけれど、行動に出さずにはいられなかったのだと思う。私としても、そのくらいでいてくれるとありがたい。自分でも、何を言っているんだ、と思うから。
でも、考えてしまったものは仕方ない。
あのとき、私は、せめて私だけでも、直江の傍に居てやろうと思った。私の独りよがりでも、直江の周りに居た、直江の大切な誰かの代わりにはなれなくても、そうしようと決めた。
……決めた、という、それだけで、結局、私は、終われなかった、らしい。直江はああ言ってくれたけれど、本当の本当に意味があったのか、一度疑いを持ってしまえば、勝手に消えてくれることはなかった。どれだけ時と言葉を重ねても、私は弱くて、あの人たちに嫉妬していて、それは容易に収まりはしなかった。
直江に直接尋ねなければ、疑問の氷解も苦痛の緩和もできないと判じるほかなかった。
「私、ずっとお前のこと馬鹿だって言って、否定し続けてたろ。
そんな私が、お前の傍に居て、なんで……。救われた、なんて……」
声が震える。愚かしさとくだらなさが倍加して、もう、どうしようもなくなっている。喉に変な力が入って、息苦しい。
言いたいことを言い終えると、聞き役の直江が、ふう、と息を吐く。それにすら私は怯えてしまって、身体が強張った。どうにも、今の私は、精神的に不安定な、駄目なときらしい。直江の指が頬を撫でてくる。宥められていることで、余計に惨めさを強調されている気がした。
「……お前は、心底、自分を軽んじて見るな」
黙っていた直江が言葉を発する。自覚はしているけれど、しょうがないじゃん、ということを改めて口に出されて、肩が縮こまった。それを抱き締められる。直江はぐっと座る位置を変え、私を後ろから抱え込むようにした。俯く私を覗き込むように、横に身を乗り出している。
「逆に考えてみろ」
ぎゃくにって、なに。声帯は仕事をサボり、直江に見えるか見えないかのところで、口だけが疑問を形作る。直江はそんな問いに答えるように、その実、ただ文を繋げているだけのことで、私に返答をする。
「私を否定してきたお前だからこそ、だ。
私は、お前が否定してきた部分で過ちを犯した。
しかし、否定してきたはずのお前は、名前は、私を見限らず、傍に居てくれた。
そこに意味があったのだぞ」
────、──。
また口だけが動いて、でも、まともな言葉にはならなかった。何と言えば良いのかわからないままに、口だけを動かしていた。
呼吸が止まっている。意識して息を吸う。吐く。浅い。目の奥が熱い。喉がひりひり痛い。手を彷徨わせると、直江の手に捕らえられる。今度は、握るのじゃなくて、指を絡めて繋がれる。頭蓋の中身が、熱で、真っ白になる。
直江の言ったことを、頭の中で繰り返す。
──私だから、意味があった。
直江を肯定してやれる人たちが、直江の周りにたくさん居て、直江はその人たちとたくさん笑っていたのに、あのとき、直江と一緒に居て、彼にとって良かったのは、私、だった。私、だけ、だった? だけ? だった? 直江を否定しながら傍に居たのは、たぶん私だけだから、私だけ、だった。私が、直江には、……。私、が。
ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃで、まとまらない思考が、脳みその内側の表面をぐるぐる這いずり回る。私は直江にとって特別な存在でいられたのかも、なんて甘美な考えが、どろりどろりと回路を溶かしていく。
「……、……、ぁぉ、……、ぅ」
名前もまともに呼べず、込み上げてきたものに屈服する。両目からぼろぼろ落ちる雫を、直江の指先が受け止めた。
いいのかな、いいのかな。それで。いいのかなあ。
本当に、私で、いいのかなあ。
直江の周りに居た人たちは、まっさらで、潔白で、直江への好意は綺麗なものに見えていた。私が直江に向けていたのは、嫌悪とか憎悪とか侮蔑とか、そういうのも混じり合った、不純物だらけのものだった。決して、好きな人に向けるような感情ではなかった。私は、好きな人には、ちゃんと綺麗なものをあげたかったのに。でも、そう在れなかった。私は私で居ることを捨てられなかったから。私は自分が可愛かったから。そんな私なのに。そんな私の、穢い感情なのに。そんなだったからこそ、私は、直江の役に立てた、なんて。思って、いいのかなあ。
私が直江の役に立つことは、直江が傷付くのが前提だった、ということにもなるのに。好きな人が苦しむのは嫌なのに、好きな人が苦しんだことで、私は、私のこの感情に価値を見出せることにもなってしまうのに。嬉しいのに、嬉しくなくて、本当は嬉しいのか嬉しくないのかわからなくなって、どっちつかずで、穢いままなのに。
本当に、私で、いいのかなあ。
腹腔の少し上がとめどなく跳ね上がって、しゃくりあげる。痛い。痛い。痛いけれど、もっと痛くても良い。直江は私に優しいから、私はもっと私を傷付けないと、釣り合いが取れない。せっかく直江が優しくしてくれても、そんなことを思う。だから、ほら、ねえ、本当に、私で、いいのかなあ。
何もかもわからない。何が正しいのかわからない。自分がどう思っているのかも、直江の気持ちに対してどう思えばいいのかも、何もかもわからない。直江の手が、労わるように腹をひと撫でしてくれたのを、喜んでいいのかすらわからない。
この人に愛されていいのかわからない。
ぼたぼた落ちる雫が止まらない。直江の腕が私を優しく抱き締める。痛いくらいにはしてくれないのが、酷い。私の考えていることをわかっているからこそ優しくしてくれていそうなのは、もっと酷い。
酷い直江は、私の耳元で囁く声も、酷い。
「あのときに傍に居てくれたのが、名前で良かった。何度でも言おう。
名前だからこそ良かったのだ」
そんなことを聞かされたら、本当に良かったのかもしれない、そう思ってしまうのに。
title by 金星 190120