私って、こんなに弱かったっけ。
そんなことに愕然として、愕然とするには、あまりにも昂りが足らなかった。悲しみとか怒りとかの入ったコップは、その水面を微かに揺らすだけで、「つらい」という大波に諸共飲み込まれてしまう。結局どの感情も表出することはなく、「つらい」だけが胸の中で氾濫していた。ただひとつ、「つらい」ことへの罪悪感だけが、「つらい」に対抗しようとして、気力を乱暴に消費する。そうすると、消費されるぶんが多すぎて、起き上がっていることもままならなくなる。布団を被って丸まった。手元のリモコンで、部屋の電気を最小限の明るさに抑える。真っ暗闇になるのは心細かったし、しっかりと明るいのは眩しすぎた。わずかな豆電球じみた光でさえ、直接視界に割り込まれるのは恐ろしくて、天井に背を向けるかたちで、クッションに顔を埋める。
こんな風になるまで「つらい」のに、それでも泣けないのは、もうひとつおかしなことだった。
「つらい」、「つらい」、「意味もなくつらい」、「人間はもっとつらい」。
そんな言葉を、閉ざした口の中でぐるぐるかき回す。「意味もなくつらい」だなんて馬鹿みたいなこと、自分で聞く気にはなれなかった。
今日は、朝からおかしかった。朝目が覚めた時にはすでに、「つらい」に支配されていた。
でも、昼間、1時間ほどの間は楽しかったのだ。好きな講義があったし、尊敬している先生にたくさん褒められた。
その時間を思い返せば、楽しかったと思う。楽しかったはずだ。あの時は楽しかった。今は、楽しいという気持ちが動かないだけで、調子の良い日なら、有頂天に思い出し笑いだってできたほどに楽しかった。
なのに、今はこれだ。全然だめ。全然だめだ。
楽しい刹那が終わった瞬間、何かがふつりと切れたのかもしれない。
帰ってきてからは、身体がだるくて動かないし、風呂に入らないとと思ってから何時間も経っているし、夕飯も食べていない。
唯一、布団の中に潜り込んでいるときだけは、ほんのすこし、雀の涙程度、気が楽になる。だからずっとそうしている。
せめて、直江が帰ってくるまでには起きなくちゃならないのに。夕飯、夕飯を作らなきゃ。いつの間にか、ストレス発散の方法だった料理さえ億劫になっている。だめだ。だめばかりだ。
ほんとうは、今日は家に帰ってきてはいけなかったのかもしれない。カラオケなりネカフェなりでオールして、だめで「つらい」私を、直江に見せない方が良かった。きっと心配される。直江を心配させてしまう。こんな、「意味もなくつらい」という、意味のないことで。意味もないことに意味なんか無いのに。
だけれど、こうやってわざわざ直江の布団に拠り所を求めてしまっている以上、後の祭りだ。
布団の中で丸まっているうちでも、指だけ動かせば良いスマホ弄りはそこそこスムーズに行える。LINEで、直江が何も気付いてくれない範囲で、何か、何かの連絡をするべきだ。夕飯はそのあたりの店でお弁当買ってきて、とか、景勝様や同僚と飲みに行ったりして良いよ、とか。直江に、何の、違和感も持たせず。
……出来る気がしなかった。
どうしようもない。うまく働かない頭で内容を吟味して、「ごめんね、今日は具合悪くてご飯作れない。夕飯は何か買って食べて。私は要らないから大丈夫」というメッセージにした。頭が良くて、人の気持ちがよく分かる人なら、もっとやりようがあっただろうと赤ペンを入れてくれたかもしれない。あいにく私は疎いから、自分で採点してこれだった。
直江の返信はいずれ来るだろうけれど、見ない。見る余裕が無い。恐いのだ。直江が、もし察してしまっていたとしたら。それを私に伝えてきたら。どうした、とか、私を気遣う文章を送ってきていたとしたら。直江に、しかも仕事のあとで疲れている直江に、こんな私の、こんな意味のない「つらい」を心配させてしまっていたとしたら。今の私にとって、この上なく残酷だ。
それに、落ち込んでいるくせに、我儘な話だと思うけれど。
私が欲しいのは、慰めじゃない。
決して、一生与えられることのない、何かへの救いなのだ。
LINEの通知を解除しながら、ネットニュースをぼうっと眺める。
今日もどこかで、人間が苦しんでいた。
「ただいま帰ったぞ」
いつの間にか寝ていた私を起こしたのは、鍵の音と直江の声だった。帰ってきたんだ。眠気の残る頭の中で、じゃあこのまま寝たふりを続けた方が良いかな、そのまま寝直してしまおうかな、と思う。大丈夫、大丈夫、朝起きたら、きっと、いつも通りの私になれる。寝て起きたばっかりだけれど、また眠ってしまった方が良い。
瞼の表側で明かりが点く。足音が聞こえた。近付いてきている。気付いて、息が詰まる。目を固く閉じた。
私は眠っているの、眠っているの。もう何もかもすっきりして、ちゃんと眠れているの。今の私は綺麗なの。
違う、綺麗なんかじゃない。まだまだたくさんたくさん意味のないことで満ちて、くだらなくて、愚かで、どうしようもなくて、罪深くて、だから、お前に愛されて良いような私じゃない。お願い、来ないで。見ないで。だめな私を見ないで。お前に愛されない私に気付かないで。お前に愛される私だけを知っていて。
「名前」
なのに。
「大丈夫ではなさそうだな」
大丈夫か、ではなかったことに、少しだけ安堵した。断定されるのは、心配されるのと似ているようで全然違う。
直江は、狸寝入りを続ける私の髪を撫でた。きっと、ほんとうは眠っていないことを分かっている。分かっていて、だめな私に触れている。ひどい。
頭を撫でる、という行為に定義された主要な言葉について、私はこれらを挙げる。「慰める」、「宥める」、そして、「褒める」。
「……ああ、良かった。泣いたな」
それは許しのように思えた。
私が欲しいもののように思えた。
止まらない涙が、抱き締めたクッションに吸い取られていく。直江はそれをぽいっと放り投げて、私が空虚感に襲われるより先に、自分の体を滑り込ませてきた。強くもない、優しいだけの力で抱き締められる。頭はまだ撫でられている。外の空気で冷えた直江のシャツが、熱くなった頬に当たってひんやりする。
安心する。欲しかったものに、ほど近いものを与えられている。
だけれど、それだけじゃどうにもならないのが私のだめなところで、罪の意識が鎌首を擡げてくるのだ。
ごめん。ごめんね、直江。こんな私でごめん。やっぱりここに帰って来なければよかったんだ。起き上がれないとか言わないで、さっさと消えればよかった。それを、直江の布団まで占領して。
私は今、直江に手間をかけさせている。心配させている。この「つらい」に意味なんてないのに、無駄な心配をさせている。愛情深くて優しい人に、ぱっくりと心を割かせている。私なんかに。
私なんか。
こんな、弱くて手間のかかって心配させてもうなんもかんもだめな私なんかじゃなくて、きっと、もっと、直江には、もっとふさわしい人が──。
「名前」
ぐるぐるぐるぐる、大波どころか、「つらい」に合わさった罪悪感が渦を巻きだして、その中に溺れていたとき、直江に名前を呼ばれた。溺れる手を、掴まれたような、気がした。
「例えば、もしお前が、自分の罪悪感に耐えきれず、ここから逃げ出したとして」
「……」
「私は絶対にお前を見つけ出して、また布団の中に押し込むぞ」
直江は一体、私の何手先まで読んでいるんだろう。今、ちょうど、夜逃げってどうやってするのかな、と考えだしたところだった。見透かされているのでは、逃げられない。いくら逃げるのが特技だと言ったって、最初から道を塞がれていては何も成せない。
じゃあどうしよう。どうやって直江に私を諦めてもらおう。私じゃない誰かに向いてもらえるだろう。私じゃない誰かに。
直江が私じゃない誰かを見るのより、直江が苦しむ方がずっと恐いのに。でも、やっぱり、直江に愛してもらえないような私を知られるのも恐いから、選択肢はとてもとても絞られて、じゃあ、もう、どうしたらいい?
喉の奥からせり上がってくる言葉がある。でも、これはこの人に向けて良い言葉じゃない。心配させたくないのなら、言ってはいけない。自分にそう言い聞かせることで、ぎりぎりを保つ。気を抜けば、嗚咽と一緒に溢れ出してしまいそうだった。
「…………」
直江は、そんな私をじっと見ていた。
「ごめんね」、「ごめんね直江」、「こんな私でごめんなさい」。言いたくても言えない言葉は、喉の奥で詰まっている。
流石の彼もきっと呆れているに違いない。いや、そうではないかもしれない。直江は私に甘い。甘くてはだめなのに。私みたいなのに甘くしたら、きっと、せっかくの直江までだめになってしまう。
「なあ、名前」
ただひたすら泣くことしかできないでいると、また、名前を唱えられた。唱える、と表現するに値する力があった。渦に溺れる私を、ぐいっと目の前に引き摺り出してくる。
泣いているから、彼の方は見られない。顔を彼の胸元に埋めてしまってもいる。
それを剥がされた。
瞬間、世界が反転する。
最初は精神的なものかと思った。でも違った。背中に敷布団の感触がする。
「な……、なんで……」
押し倒された拍子に涙が零れても、視界は未だに潤んだままで、室内灯が乱反射した。直江はその眩しさを背負って、私を見下ろしている。いつもだったら涙を拭ってくれそうな手も唇も、私に触れてはいなかった。ごく、と喉が鳴る。
予感を裏付ける声がした。
「ひどいことをした方が良いか?」
駄目だ。
そんなことを、直江にさせてはならない。
「やだ、やだ、ごめんなさい! ごめん、だめ、だめ、だめ、ごめん、ごめんなさ……、ひっ……ごめんなさ……、ごめんなさいっ」
「なぜ駄目だ」
「だっ、てえ! だって、なおえ、……そうい、の、きらい……、つらい、でしょう、なのに! なおえ、なおえが、つらいのは……、いやだ……、やだ……」
声帯の制御ができない。生き物みたいに言葉が飛び出ていく。
愛すること、大事にすることが信条である直江に、私を傷付けさせる。そんなの、考えたくもない。
でも、私なんかが、私をなんて、馬鹿みたいだ。
これは、直江が私を好きであることを自覚しているからこそ思えることだ。いや、分かってはいるのだけれど、分かっているべきなのだろうけれど、自覚があって、その自覚を看過している、そんな自分にぞわぞわする。落ち着かない。何かが収まるところに収まっていないような、自分の持っているものは全部たんすの中に入れて片付けたはずなのに、ひとつだけしまい損ねた何かを見つけてしまったような。
胸のあたりが苦しい。肺が引き攣る、心臓が握り潰される。そうしたってどうにもならないのに、そうしたらどうにかなるような錯覚を覚えて、胸元に指先を食い込ませた。
その手が、もっと大きな手に覆われる。目のすぐ横に、柔らかいものが押し当てられた。
「ああ、そうだ。お前は優しいな」
「やさし、……、…………」
意図的に温度を抑えられていたさっきとは、打って変わったあたたかな声。反射的に否定しかけて、でも、途中で、なんだか、ちょっとだけ、少なくとも直江に対しては、ほんのちょっぴりそうなのかもしれない、と思ってしまって、詰まった。直江に辛い気持ちになってほしくないという気持ちに、小数点以下でも、清潔な気持ちが無い、とは言い切れない気がした。
──やめてほしい。私はただでさえ馬鹿なのだから、息ができないときにそう言われたら、余計に人の言うことを鵜呑みにしてしまう。むしろ、もう、自分の頭がほんとうに働いていないのかさえ分からない。意外と、思考がすっきりしてきたようにも思えるし──。
「……なおえ」
「うん」
「泣いたら落ち着いた……」
「それは良かった。お前は泣かせ甲斐があるな」
「いみがわからん」
ここで、呆れ声ではなくて笑い声が出せたなら、かわいかったんだろうな。そうは思えど、直江の指と唇によって明瞭になった目で見た彼に、気分を害した様子はなかった。
ひどいこと、にまったく向いていない直江は、彼向きの優しさで、私を抱き締め直してくる。私も彼に抱き着き返すと、額をぐりぐり寄せた。それでも「ありがとう」という音は直江のシャツに吸い込まれることなく届いたようで、笑った彼に頭を撫でられる。肩から力が抜けた。
涙は感情を整理するためにあるって、どこで聞いたんだっけ。正確な出典元は思い出せないけれど、眉唾ではないんだろうな。
もっと早くに知りたかったことをぼんやり思い出す。
それだったら、私は泣く練習でもしていたのに。
今じゃ、直江が居ないと泣けないやつになっている。
やつみたい、にする隙も無い事実は、自分を責める理由として十分だった。だけれど、今の私は感情の整理とやらができてしまっている。冷静に分析しただけで終わった。
私の感情の整理に直江を利用している申し訳なさや、自分の穢らしさも思い知るのに、直江は気にも留めないんだろうな、とも考える。なんなら、口に出してみて、実際の返答と照らし合わせてもよかった。それを実行するより、直江のあたたかさに浸っている方が優先されるけれど。
やがて私の呼吸が完全に落ち着くと、直江は私の傍にティッシュボックスを置いて、夕飯の支度を始めた。帰る途中のスーパーで買って来ていたという弁当やパンが、テーブルの上に並べられる。水気を無くした私は彼のすぐ隣に手招かれて、好きなものを選ぶよう言われた。私は要らないって言ったんだけどな。正直、落ち込んだことと泣いたことで体力を消費していて、食欲があまり無い。……でも、直江とご飯を食べたい、という欲求は、あるかも。うん、ある。結局、食べる労力の少なさそうなサンドウィッチを選んだ。
テーブルの上に食べ物を置くと、何の障害も無く、直江と隣り合っていられる。直江と今の関係になってからの些細な当たり前が、とても好きだ。今だって、さっきはあんなに「つらい」と思っていたのに、もうすっかり、日常に戻ってこられた気がする。それも見越して、私のぶんの夕飯も買って来てくれたんだろうな。彼を横目で見ながら、笑みが零れる。
隣で直江がどんなことを考えていたのかは、後になって知った。
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