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 その墓は、なだらかな丘の上にあった。
 羊の放牧に使われるエリアよりほんの少し離れた、南の国らしく、平原ばかりの寂しい土地だった。街灯などという洒落たものは無く、夕方にもなれば、いよいよ誰も立ち寄らなくなる。
 しかし、そこへ向かって、無言で脚を進める男が居た。左手に、小さな花束を携えて。
 彼はレノックス。魔法使いであり、墓に眠る人間の──夫であった。
 石造りの簡素な墓標に辿り着くと、レノックスはしゃがみ込む。

「久しぶり、だな。名前」

 前に、来たのは……。……すまない、忘れてしまった。
 特徴的な、ぼんやりとした口調で、レノックスは墓に──その根本に、話しかけた。
 持ってきた花束を墓へ置き、彼はゆっくり目を閉じる。
 瞼の裏では、かつてこれと同じ花を受け取ったときの、名前の笑顔が思い出されていた。
 南の国に咲く、ささやかで可憐な野花の似合う人だった。当時のレノックスにもそう感じられ、彼はなんとなしに、いくらか摘んだのをリボンでまとめ、名前に贈った。花束というには素朴すぎるそれを、名前はいたく喜んだ。その姿に、レノックスは、名前はずいぶんこの花が好きらしいな、と思った。
 その考えが事実とは異なることを知ったのは、1ヶ月か2ヶ月した頃だった。
 彼/彼女/名前は言った。

「花も綺麗で嬉しかった。だけど、レノックスさんにもらったのが一番嬉しかった。
 私は、レノックスさんのことが、大好きだから」

 その「大好き」が、一般的には恋愛感情だのと呼ばれるものであることもしっかり添えた、いわゆる「告白」であった。自分を顧みない節のあるレノックスに、己の想いが間違いなく伝わるようにと、熱を込めた行為だった。
 そうでありながら、彼/彼女/名前の目は、諦めを宿していた。南の国に流れ着きながらも、ずっと誰かを探しているらしいレノックスが、きっと誰のものにもならないであろうことを、名前は知っていた。
 事実だった。レノックスは、気持ちだけ受け取るはずだった。──普段通りであったなら、相手が名前で無かったなら。
 名前に告白されたとき、レノックスの脳裏を過ぎったのは、医者と名乗る魔法使い、フィガロの言葉だった。彼は、名前を「レノックスがよく仲良くしているあの子」と呼び、

「もう、長くないよ」

 余命を告げた。強力な魔法使いであるフィガロにも、どうにもならないものらしかった。そもそも、名前はありふれた人間と同じような生活をしてはいるものの、身体を構成するあらゆる物は、人よりも脆弱であるらしかった。根本を辿れば、人間を害する魔法生物に行き着くらしいが、もう変容してしまったものはなかなかどうしようもないのだ、治すすべはあるけれど現実的ではない、と彼は言った。
 つまり、名前を蝕むのは病ではなく、寿命であって、それを変えることは医者にも人間にも魔法使いにも難しいということだった。
 レノックスは、名前に視線を向けた。己より長身であるレノックスを見上げる名前の身体は、レノックスの体躯に比べれば矮小ではあれど、あとほんの少しの時間しか動かないようには見えなかった。
 しかし、フィガロが言うからには、間違いなく事実であった。

「……俺と、共に居てもらえませんか」

 知らず、言葉を返していた。名前が目を丸くするのを、レノックスも内心驚いた気持ちで見ていた。
 顔を赤くしたり青くしたりで忙しい名前の傍ら、レノックスは自分の今の発言について考えた。
 己は、自分が、というより、周囲の大切な人々が幸せで居てくれれば、それで良い性分だ。そして、名前にとっての幸せとは、彼/彼女/名前の告げた通りなら──。
 考えだしてすぐ、レノックスの意志は固まった。簡単なことだった。
 レノックスは、相変わらず状況が掴めていない様子の名前の両手を、己の両手で掬い上げるように握った。
 ──それからの日々が、客観的に見て幸せだったのかどうかはわからない。なにせ、レノックスは己の幸せを勘定に入れない。ただ、彼/彼女/名前はいつも笑っていたから、幸せだったのだと思う。自分も、名前の笑顔に満足していた。常に春の陽気の満ちているような時間だった。
 けれど、その幸せが終わる日に、彼/彼女/名前は泣いていた。

「知っていたからでしょう」

 レノックスは、ああ、と答えた。力無くベッドに横たわる名前は、眉を下げたまま、口端をぎこちなく持ち上げた。

「レノックスさんの、そういうところが。
 私は、だいすきで、そして」

 その先の言葉は無かった。
 彼/彼女/名前はもう二度と、喋りもしないし、笑いもしないし、泣くこともなかった。

「…………」

 ──こうして墓の前に来るたび、いつも思い出す。
 名前の最期の言葉のこと。名前と過ごした短い日々のこと。名前の笑った顔のこと。
 あのとき、するりと零れ落ちた、自分の答えのこと。
 俺は。

「冷えるよ、レノックス」

 いつの間にかやって来たフィガロに声をかけられるまで、日が落ちていることにさえ気付かなかった。



200711 約30の嘘