082

 雷に打たれた心地がした。
 ちらりと目が合った彼は柔らかな髪をふわりと遊ばせ、麗しい足取りで私の横を通り過ぎた。甘い香り。頭がぐらっと煮立つ。
 高貴で美しい存在は、天界でいくらでも見てきた。
 しかし、あの、手を伸ばせば届きそうな、伸ばした手を払って一笑に付しそうな、身近でありながら身近とは思えぬような存在は、初めて見た。

「アスモデウスに一目惚れか」
「……あすもでうす……」
「あれ、名前? 大丈夫?」

 笑うシメオン様の声が、思考回路を通さずにするりと抜けていく。唯一、「アスモデウス」、あの彼の名前だけが脳にこびり付いて残った。
 本来、シメオン様へのおつかいがあって、天界から魔界へやって来た身だ。用事を済ませたなら、ここで時間を使い潰すべきではない。
 すぐに帰らなければならない。わかっていながら、そうする気は一切起きなかった。

「……アスモデウス……」

 知っていた名前を、しかし今初めて存在と結びつけて──私は天使としてもまだ若い方で、彼ら兄弟が天界に居た頃を知らなかった──、口の中で転がした。心なしか、舌の上が甘い。

「まさか、名前が悪魔に心を奪われるなんてね」
「…………」
「わあ、上の空だ」

 驚いているときの声と、苦笑いしているときの声。それにだけ気付きつつ、内容を理解するのには数テンポ遅れてしまう。身の内のほとんどを、彼が埋め尽くしていた。
 シメオン様が首に手をやるのも、視界に入るだけで終わる。

「……ごめん、一応聞くんだけど。
 きみ、アスモデウスと目が合ったんだよね?」

 ただ、今度の言葉はすぐに解すことができた。
 なぜなら、

「…………アスモデウスの力は知っています……。
 でも……」

 アスモデウスに出会い、街を歩き、このメゾン煉獄に辿り着くまで。
 自分でも、何度も繰り返した疑問だったからだ。
 「目を合わせた相手を虜にする能力」。
 アスモデウスの能力は、さすがに有名で、強力だ。未だ悪魔を厭う天使たちなどが、注意を呼びかけるほどに。
 ──あの一瞬、彼はその力を使ったのか。
 ──私の彼への想いは、その力のせいなのか。
 数時間にも満たない間だったけれど、自問自答を続けた。
 私の感情は、植え付けられたものではないのか。
 偽物ではないのか。
 その答えを、私はもう決めていた。

「今、私が彼を素敵だと思っているのは、確かですから」
「……そっか」

 シメオン様が、嬉しそうに笑う。
 能力を使われていようが、使われていなかろうが、私は彼に何もかもを奪われたし、きっと、どちらにしたって、結果は同じだった。
 そう信じたいということを、私は答えとした。
 惑う心を捧げるのは、彼に失礼とすら思った。



220418 約30の嘘