049
馬鹿だったんだよ。でも、好きだったのは本当だった。あんな無様を晒しておいて、好きだったなんておかしいかもしれないけれど。
あいつを好きになったのがいつだったかなんて覚えてない。気付いた時には、いつも、あいつのことを気にしていた。3つ前の席に座るあいつを、じっと見ていた。また本読んでる、とか、弁当は親が作ってんのかな、自分で作ってたりするのかな、だったらいいな、とか、ぼんやり考えるようになっていた。
それで、あるとき、そうか俺はあいつに恋してるんだ、って自覚した。
じゃあどうしよう。俺は考えた。
教室で、女子が集まってしている恋バナにこっそり耳を傾けた。姉のパシリをする弟を装って、わざとらしく「まったく姉貴は」なんて呟きながら、少女漫画をレジに持って行った。
あいつと接触することはなかった。気恥ずかしかった。自分はおしゃべりな方のはずなのに、あいつとはなんて会話したら良いのかわからなかった。
それが良くなかった。
あいつ以外から得る情報というのは存外偏っていて、イケメンが良い、強引な方が良い、意地悪されてもなんだかんだ許しちゃう、そんなものばっかりだった。もしかすると、その方が俺にとって都合が良いから、そういう情報だけを拾ってしまっていたのかもしれない。少女漫画なんかは特に、意外と過激なシーンもあったりして、へえ、ってにやにやしていた。
とにかく、俺は馬鹿だった。
あいつも、「これ」が好きなんだろって思った。
「なあ、名前」
「え? なっ、なに、えっと」
「こっち来い」
ある日の昼休み、俺はとうとうあいつに話しかけた。伝聞の知識だけだったのに、根拠無く、「いける」と思い込んでいた。
俺は、初めてまともに会話するあいつの腕を掴んで引っ張った。びっくりするくらい細い腕で、妙に興奮したのを覚えている。だからわからなかったけれど、こうして、過ぎ去ったこととして冷静に思い返せば、あいつは多分、3年も同じ学年だった俺の名前を覚えていなかったし、腕を掴まれて「痛い」って言ってた気がする。今気付いたところで、後の祭りなんだけど。
ほんと、今更。
人気の無いところに連れて行かれたときのあいつは、どれだけ怖い思いをしただろう。無理矢理壁に押しつけられて、両腕で逃げ場を塞がれて、どんなに傷を負っただろう。
「俺と付き合えよい」
俺の自分本位な告白を、どれほど気味悪がっただろう。
それでも、俺はその瞬間まで、自分は正しいと信じていた。
キスをするまで。あいつが泣き出すまで。
「たすけて……」
「────え……」
断りの言葉ですらないものが聞こえた。あいつが漏らしたのは、恐れと惑いに満ちた、懇願だった。
「……おい、なん、だよい。それ」
「ヒ…………」
「なんだって言ってんだよ!!」
それでもう、駄目だった。頭にカッと血が昇って、抑えきれなくて、あいつを怒鳴りつけた。だって、初めて喋って、初めて向き合って、初めて、ずっと焦がれて、なのに、突きつけられた現実は、甘っちょろい想像と何もかも乖離していた。
唇が、喉が、震えた。あいつも震えていた。口元を手で覆って、ぼろぼろ溢れる涙がそこを伝って下に落ちて、襟を濡らしていた。
俺は、──愚かだった俺は、ようやく、「もう戻れない」とわかった。わからされた。どうしてそんなことになったのかは理解できなかったけれど、ただ、ただ、何かを壊してしまったことだけはわかるしかなかった。
けれど、その間違いを、認めたくはなかった。
逃げ出した。どこへ行ったら良いかわからなかった。間違えた。間違えていなかった。間違えた。どうしたら良いかわからなかったから、手探りで進んで、実行して、間違えた。じゃあ、行くべき場所が分からない今も、がむしゃらに走っても、また間違うんじゃないか。ああ、いいや、だから、間違ってなんか!
それでも走れば中庭に辿り着いてしまって、俺は、午後の授業をそこでサボった。
あいつも午後に保健室へ向かって、そのまま早退したのだと、次の日に知った。朝、女子があいつに絡んでいたからだ。俺に気があるらしいと噂になっていた奴だった。昼休みに俺があいつを引っ張って行って、そのあとふたりして居なくなったから、怪しんでいたらしかった。
俺の話だっていうのに、あいつは俺を見ようともしなかった。きっと、怯えていた。あの女子にも、俺にも。
あいつは、弱々しく答えた。
「……具合悪そうにしてる、って、保健室連れてってもらった」
「そうなんだ! さすが丸井くん! 優しー!」
「い、……いや……」
話を振られて、たじろいだ。
誰にでも優しいもんね、という言い回しであいつが牽制されるのも、うまく頭に入ってこなかった。
庇われた。泣かせた相手に、何かよく分からないことになってしまった相手に、それなのに庇われた。
また、なんて言ったら良いのかわからなかった。自分で考えて、自分で選んだら、間違う気がした。
けれど、そのときは、促された流れがあった。
「まあ、それほどでもあるよい」
うまく笑って、それが答えなのだろうと信じた。
俺はどこまでも卑怯だった。
──そんな愚かな話を、今。
大人びたあいつの、左手の薬指を見ながら、思い出していた。
「まさか、結婚してるなんて思わなかった! いつ会った人なの?」
「実は、幼馴染で、中1のときから付き合っててね」
「えー、知らなかった! もっと早く教えてよー、知ってたら同窓会じゃなくて結婚祝い飲み会にしようって言ったのに!」
「いや、そんなの悪いよ。そこまで仲良かったわけじゃない人もいるわけだし……」
──馬鹿だったんだよ。でも、好きだったのは本当だった。
今も、鮮明に思い出せるくらいには、好きだったんだよ。