22

 光忠とキスをした。

「……は!? いや、そん、……ああ、あれ……?」

 という夢を見た。
 障子越しに部屋を明るくする朝陽、のどかな鳥の声。音を立てる心臓。世界と自分がちぐはぐで、どこか後ろめたさを感じる。隣で寝ていた光忠はもう起きているらしくて居なかったのが、救いと言ったところか。
 夢の内容は、朧げだ。これまでの人生で夢を見た経験はそこそこあるけれど、具体的な記憶を起床後まで持ち越せたことはあまりない。
 でも、アバウトには残っている。
 光忠とキスをした。

「…………え、いや、そんな、いや……」

 分かっている。分かっている。それは恋人同士の通過地点だ。彼とそういう行為をすること自体はおかしくはない。
 問題は、今自分の胸中にぐるぐる渦巻く嫌悪感だ。焼きすぎた魚の真っ黒な焦げだけ目一杯口に詰め込んだみたいな。
 ──なんだか、自分がいやらしい女に思えた。汚い欲求のように感じた。てらてらと光り、ぬめぬめとしていて、ぶにぶにと蠢く生物が目の前で這い回るのを見ている気分だ。自分の唇を触ると指がふにりと沈んで、目の前に浮かび上がるおぞましい生物の感触と重なる。腹の底から嫌悪の絶叫を上げたくなった。
 だというのに、同時に、その夢が朧げにしか記憶に残っていないことを残念に思い、忘却の海からどうにか引っ張り上げようとする私も居る。彼のうすい唇はどんな感触だったのか。彼の吐息が肌に触れるのはどんな心地だったのか。彼はどんな表情をして私にキスをしたのか。……ああ、やめだ、やめ。
 矛盾していて、苦しい。
 だというのに頬は熱を帯びたまま、心臓はばくばくと五月蠅いままだ。

「……なんか、駄目だ」

 光忠を綺麗なひとと思っているわけでも、綺麗なひとを個人の欲で汚してはいけないと思っているわけでもない。
 そもそも光忠は、欲の無い綺麗なひとではないだろう。少女漫画事件の日、やたらと耳や首を触ってきたり、それからもよくべたべたくっついてきたりしたんだから、光忠にも何かしらいやらしい欲求はあると思う。……大体、光忠は大人だし。
 でも、私がそういう欲求を持っているっていうのは、駄目な気がした。何を駄目だと思っているのかは分からない。ただ、これではいけない、と焦燥感に駆られるだけだ。

「みつただ」

 彼の名前を紡いだ声色に身震いした。鳥肌が立ちそうなくらいに気持ち悪い。
 泣いて縋るような声が出るはずだったのに、毒々しい桃色の、甘える女の声をしている気がした。私の耳がおかしいだけだと思いたい。妙なことを考えているから、それに聴覚が引き摺られただけであってほしい。
 枕をずらして、冷えた布が頬に当たるようにする。泣いた後の頬の涼しさに似た温度だった。
 目の前には光忠の分の枕がある。その上には小さなメモが乗っていた。光忠の書き置きだ。書かれている内容は、「朝の鍛錬をしてくるね」で、日によってこれは「朝餉を作ってくる」だったり「畑に行ってくる」だったりする。毎朝置いてあるのだ。君が起床時間より早くに目を覚ました時、隣に僕が居ないことを少しでも寂しく思わないように、と彼は言っていた。実際に私がこれを目にするのは大抵が光忠に起こしてもらった時で、結局意味をなさないことが多い。だというのに、光忠は欠かすことなくこれを置いて行ってくれる。
 私が寂しくないように。

「……やっぱり、駄目だよ」

 光忠からの私の扱い。それと、私が色欲を持った女であること。そのふたつは決して同時に成り立たないように思った。後者が成立してしまえば、前者の関係が破綻してしまうのでは、と。
 理由は分からない。見えない。
 時計を見て、前にもこんな状況になったな、と頭を抱える。彼が起こしに来るのが怖い。
 光忠の顔を見たら、まず間違いなく平静を保てなくなってしまう。
 そうしたらもうおしまいだ。察しの良い光忠のことだ、何かしらあったのだと気付くだろう。そうして、私のこの欲が彼の前に晒されてしまうのだ。
 ……ふと、書き置きが目に入った。

「……ジャージ着て、外に行こう。まだ結構あるけど、朝食の時間まで凌げるはず……」

 思考を言葉にして吐き出すと、些か落ち着く。
 本に塗れた机の上からペンを取って、光忠の書き置きの紙をひっくり返した。そこに書いた「朝食までぶらついてくる」という字は半ば殴り書きのようになったけど、急いでいるから仕方ない。
 部屋の隅に畳んで置かれていたジャージにさっと着替えて、部屋の外へ飛び出した。


 ──嘘だと言ってくれ。

「おはよう、今日は早起きなんだね。どうしてここに?」
「あ、うぁよ、あ、うう、はっ、あ、おあよう」

 光忠の朝の鍛錬メニューにジョギングが入ってやがった、本丸中走りまわるのが入ってやがった、出くわしてしまった、こんな塀しかないような本丸の片隅で……! そりゃそうか、本丸一周するなら塀を伝って走った方がやりやすいわな……! 
 言葉が汚いとかもうそんなの普段だって乱れてるんだから今更だ。どうしたら良いのかわからなくて頭がごちゃごちゃだ。
 光忠はきょとんとしている。額の汗を腕で拭いながらこっちを見ていて、その些細な仕草だけでどきりとした。
 彼の唇に目がいく。

「──な、んでも、ない」
「名前?」

 最悪だ。
 駄目だ駄目だと思っているのに、色欲が顔を覗かせる。もう見ないようにしないと。俯いて、逃げるタイミングを計った。
 それを阻まれる。腕を掴まれた。手袋越しの体温は、いやにあつい。運動した直後だからだろうか。

「名前ちゃん」

 例の呼称に、引けていた腰がすっと戻ってくる。どうしてか、私はこれにひどく弱かった。俯く視界に、一歩、彼のシューズが入ってくる。
 逃げれば簡単なのだけど、私に彼を拒絶するような動作は出来なかった。光忠が屈んで、私の顔を覗き込む。気遣わしげに見上げられた。……今、彼の顔は見られない。あのパーツを意識してしまうから。目を逸らした。
 腕を掴んでいた光忠の手がするりと動く。両手とも、彼のそれぞれの手と絡められた。ぎゅう、と握られる。

「……何か、怖いのかい?」

 問われて、頭の中に現れていた靄が薄くなった。
 怖い。怖い、か。

「……わから、ない。なんか、嫌だなって思って。
 でも、そっか。私、怖いんだ……」

 口にするとしっくりくる。昔数度聴いただけの名前を知らなかった歌に、もう一度出会えたような気持ちだ。
 光忠は、うん、と頷いた。そして落ち着いた声音で、

「どうして、怖いと思ってるのか。心当たりは?」
「きっかけはある、けど、どうして、なのかは……」
「オーケー。じゃあ、怖くなってるきっかけを教えてほしいな」
「え? えっ、……あ」

 聞かれるままにすっかり答えてしまったとそこで気付く。私ってほんと、こういうところが特に馬鹿だ。
 光忠の問いかけの仕方もどうにも逆らえなくて、言いたくない、とは答えられない。でも答えるのも、そう、怖い。それに、あなたとキスをする夢を見ました、なんて恥ずかしくて口に出せない。キス、という単語を発声するのだって躊躇われる。結局しばらくの間口を噤んでいた。
 光忠は根気良く私の答えを待っている。急かされているような圧力は感じないけれど、気まずかった。
 だけど答えなきゃ先に進まないのも分かっているし、逃げたところでいつか向き合う問題なのも予想がつくし、光忠を待たせたり心配させたりするのも申し訳なくて苦しい。だから私に残された選択肢は、正直に話すことだけで。

「……夢を、見て」
「夢?」
「…………、うん……」

 私が頷くと、光忠は続けて、どんな夢? と。
 もうここまで来た以上、言うしかない。言ってしまった方が、それで拒絶であれど結果を知ってしまった方が楽なんじゃないかと逃避さえし始めている。
 だけど、キス、なんて言葉を音にするのが難しくて。いやらしいし、恥ずかしいし。

「……そ、その、……光忠とはずかしいことをする夢でしてっ」
「え」

 光忠が固まった。
 私も力尽きて、何も言えなくなる。沈黙が続いた。
 光忠はうろうろと視線を彷徨わせたあと真面目な顔をしていて、彼がどう思っているのか私には到底分からない。
 ──やっぱり、駄目だったんだ。こんなこと考えちゃう私は、光忠に今までのように思ってもらえないんだ。
 勝手に肺が戦慄いて、身体も一緒に震えた。それが繋いだ手に伝わったらしくて、光忠が勢いよくこっちを見る。彼は目を見開いた。

「名前ちゃん」

 すぐに、ふ、と笑いかけられる。ああ、よかった。笑ってもらえた。その呼び方で呼んでもらえた。それだけの好意はまだ持ってもらえている。
 少しだけ心が落ち着いて、彼が困ったように一瞬目を逸らしても、そのまま彼を真っ直ぐ見ていられた。
 私に視線を戻した光忠は言いにくそうにして、

「無粋なことを聞くけれど、そのはずかしいことって、ええと……」

 彼にしては珍しく口籠った。
 続きを待っていると、相変わらず微笑を浮かべたままの口元で、でも意を決したような目で私を見る。
 とんでもないことを言った。
 
「────性行為?」
「せっ!? い、いやっ、ちがっ」
「え!?」

 何が「え!?」なんですか!? と思ったけど、私が勘違いさせるような言い方をしてしまったんだろう、きっと! というか思い出すと確かにそう聞こえなくも、ない……。
 そうやって混乱する私に、光忠が「ごめん!」と勢いよく頭を下げる。光忠も光忠で大慌てな様子だった。またもや珍しい。
 謝らなくていいから、お願い、謝らないで、と顔を上げてもらって、何を言うべきかなんとか思考を組み立てる。
 私は単語のチョイスを誤ったのだ。もうちょっとストレートで、かつ、言うのにあまり抵抗がない言葉を探す。

「あのね」

 苦悩の果てに思いついて、光忠の手をぎゅっと握った。

「ちゅーです」
「ンンッ」

 光忠がまた勢い良く頭を下げた。ヘドバンでもしているのかという具合だった。計2回しか頭を振っていないけれど。
 屈み込んだまま俯いている彼の表情は分からない。深呼吸をする呼吸音だけは分かって、困り果てる。
 やがて顔を上げた光忠の頬は、ちょっと赤かった。……照れてたのかな? でもどうして照れたのか心当たりがないから、きっと気のせいか人体の神秘か何かだな。

なんだって純情