02
僕は主を好いている。忠誠でも親愛でもなく恋慕と呼ばれるその情は、いつからか僕の中に燻り始め、たまのかなしさとたまのいとしさで心を揺らす。
彼女はそれを知らずに、ただ笑う。
「主、駄目じゃないか。だらしないよ」
「……うえー、いいじゃんかよ、燭台切ー。今休憩中なんだからさあ」
通りすがりの主の部屋、畳の上に寝転がっていた彼女を見咎めて声をかけた。
名前は不満げにぼやきながらもゆっくりと身を起こして、顔にかかった髪を払おうと首を振る。おそろしくずぼらだ。
仕方ないなあ。片膝をつき、ポケットから櫛を取り出す。拗ね顔のまま此方を見上げる彼女の髪は陽光できらきら光っている。これほど綺麗な髪なのに、乱れたままでは勿体無いとしか言いようがない。
片手を名前の頭に添えると、観念したように視線を落とした。櫛を髪に挿し通せば、時折引っかかりながら梳けていく。彼女の顔にかかった前髪を除ければ完璧。横髪を掬って耳にかけると、終わりを予感したのか名前が僕を見上げた。
「これで良し。身嗜みはきちんとしなきゃ駄目だよ」
「はあい」
中身のない形式だけの返事に苦笑する。格好良くしていてよね、僕の主なんだから。そう言ってみても、んー、だなんて、聞いているんだかいないんだか分からない。
もう、本当に仕方ない子だなあ。
櫛を仕舞い、今度は服に手を伸ばす。このパーカーという服ではなくてどうせならもっと良いものにすればいいのに、審神者としての正式な服でさえ余程のことが無ければ着ないときている。腕の捲れた布を手首まで降ろして、服全体が前面の方に寄っているのを後ろへ引っ張る。裏返しになっていた帽子も元に戻した。名前がけたけた笑う。
「燭台切って、世話焼きだよね」
「僕の主って、世話を焼かせるよね」
お返しとばかりに言うと、名前は目をぱちくりと瞬かせたあと殊更笑った。違いない、と笑い声に混じった呟き。随分と楽しそうにする彼女の隣に座った。先程までむっすりしていたくせに、打って変わって機嫌の良さそうな顔を僕に向ける。
次いで、そうだ、と問いかけられた。
「燭台切は何か他に用事はないの?」
「無いよ。僕も休憩をしに部屋へ行こうとしていたんだけど、休憩なんて此処でも出来るからね」
それは勿論部屋の主である名前が許可するのならだけれど、様子を見るにわざわざ許しを問うまでもない。納得したように頷いたきり彼女は黙った。その口許は緩んでいる。
部屋にあたたかな陽が差し込む。言葉のない空気は決して重苦しくない。時がゆっくりと流れていくという錯覚。穏やかな日常。
「……ねえ、主」
それでも沈黙を破ってしまったのは何故だろうか。不思議そうな彼女の瞳は静かで、僕の胸の奥には波が立った。さらには困惑する。
話しかけたのは良いものの、何か話題があってのことではない。迷って、
「君の髪は綺麗だよね」
先刻思ったこと、そのままを口にした。彼女は動きを止める。瞬き一つ無くして、やがて俯いた。彼女は自らの顔の下半分を手で覆う。伺うように上向く顔は喜色に満ちていた。
波が凪ぐ。
「そんなこと言われてもなあ、私はあんまりそういうの気にしてないし、髪が乱れてても、別になあ」
大嘘。明るいトーンで、早口。分かり易い。嬉しいからこそ意地を張る、恥ずかしがり屋な捻くれ者の精一杯。素直じゃない。これで笑顔にならずにいられるものか。僕の言葉に揺らぐ様が愛おしい。
それが表情に出ていたのか、名前はそっぽを向いてしまう。残念だ。けれど、僕にペースを狂わされているのが如実に表れていてより嬉しい。緩やかだった空気は動き始めているのを感じた。
ああ、単純だなあ、彼女も僕も。手を伸ばして彼女の髪を撫でれば、するり、指通り良く流れた。