07

 心を揺るがされる出来事など、起こっていない。
 私は未だ、いつも通りだ。
 いつも通りなのだ。

「名前さん、少し良いかい?」

 真夜中の食堂。火にかけた鍋の中身をマグカップに移し替え、砂糖を入れたちょうどその時、Dr.ロマンがやって来た。
 顔を覗かせた彼の入室を断るわけもない。私も席に着きながら、素直に招き入れた。

「今日はホットミルクなんだ」
「はい、そういう気分だったので」
「そっか」

 普段ならホットミルクなんて子供っぽい飲み物は選ばないけど、一応そろそろ休息が必要だと思ったので。コーヒーでは眠れなくなる。私にいつも休め休めとうるさいDr.ロマンもこれで文句は無いのか、特に咎めたりすることもなかった。
 彼は私によく見せるちょっと曖昧な顔のまま、隣に座る。

「……ちょっと真面目な話をね、しに来たんだ」

 その声は確かに真剣で、どこか低く沈んでいる。
 わざわざこんな時間に、私しか居ない場所で話すような内容だ。誰にも聞かせることの出来ない、重要なことなのだろう。
 私も、まだ一口も飲んでいない熱いカップをテーブルの上に置いて、居住まいを正す。
 Dr.ロマンは張り詰めた空気を乱そうとしない。
 私には慣れきった感触だった。懐かしく、求めてさえいたもの。
 彼の目を真っ直ぐ見据える。その奥まで見通そうとする。呼吸の音に耳を澄ます。唇の些細な動きさえ見逃すまいと。

「名前さんには、最後までカルデアに居て欲しいんだ」

 そうして放たれた弾丸は、ひどく平凡なものだった。

「勿論。そういう契約です」
「うん。そうだ。でもね」

 私も平凡な言葉で返せば、Dr.ロマンは小さく息を吸う。瞳の色を濃くする。ここだ。これが本命だ。
 身構える。

「君は、『魔術師』で、魔術の大家の『当主』だから」
「──、」
「いつか人理を修復できたとき。カルデアにはあらゆる悪意の目が向くだろう。
 それは、下民を搾取する貴族の目だ」

 ぐら、と胸の奥で音がする。
 積み重なったパズルの塔。ひとつひとつパーツが抜き取られ、今にも倒れそうだったその塔へ、ゆっくりと時間が巻き戻るように、ひとつひとつパーツが帰っていく。そういう光景を、自分の心の中に幻視した。

「君は、そういうものからカルデアを守ってほしい。貴族というものをよく知っている君に、魔術師という貴族との政治抗争が日常だった君に、頼みたいんだ」

 とどめ。パーツの戻ったパズルの塔は、完全なバランスを取り戻した。
 そうだ。これが。
 ──これが、私だ。

「解りました」

 Dr.ロマンに、真っ直ぐ応える。
 その声は、久しぶりに聞く音をしていた。


「よう、お帰りかい」
「……あなた、自分の部屋は?」

 食堂からの帰り道。マイルームの前で、ベオウルフの姿を見つけた。

「散歩だよ、散歩」
「どうだか」

 嘘っぽいにもほどがある返答に溜息を吐く。
 すると、ベオウルフは、お? と不思議そうな声を出した。何かあるのかと半ば睨むように見上げれば、彼はいやあ別に、とまた誤魔化す。幾許かして、思いついたように人差し指を此方に向けた。
 その指先が指しているのは、私の手の中の物。

「それは?」
「コーヒー豆とかフィルターとか。食堂に飲みに行っても良いけど、マイルームで仕事したいときもあるから」
「へえ」

 適当に選んだ質問だろうに、ベオウルフは意外にも何か腑に落ちたような顔をした。
 ……さて、使い魔との会話なんてこの程度で良いだろう。元の予定では、今日は早く休むはずだったのだ。
 マイルームに足を向け直す。別れの言葉も別にいらない。ベオウルフも理解が良いから、特に何も言わず私に倣った。ようやく彼の部屋に戻るのだろう。
 けれど、最後に。
 背中に声が投げられた。

「お前らしいイイ顔だぜ、マスター」

 ──立ち止まる。途端、ベオウルフが笑い出して、私はマイルームに飛び込んだ。  

照れてるんだと何で分かるの

title by afaik 170422